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沖縄の郷土料理の事を「琉球料理」と言いますが、現在では長寿食として世界に知られるようになりました。しかし、王朝時代に首里城内で食されていた宮廷料理と庶民が食べていたものには大きな違いがあります。

庶民は自然の中から知らず知らずのうちに栄養のバランスを整えていました。台風や干ばつなど度々起こる厳しい沖縄の自然条件、さらに医療も遅れていたため、身体の抵抗力を養うためにその季節季節の食材をうまく利用しました。沖縄では食べ物のことを「クスイムン(薬になるもの)」「ヌチグスイ(命の薬)」と言い、食事で病気にかからないようにしたり、例え病気になっても食で改善するという考えがあり、それらは現在も受け継がれています。健康に良いとされる食材を積極的に使い、長時間煮込むことで余分な脂を除去したり、数種類の材料を組み合わせてバリエーションをつけることで自然とタンパク質やビタミン・ミネラルを取り入れていたことが長寿につながったのではないでしょうか。


一方、宮廷料理は中国や東南アジア・朝鮮などの多くの国から影響を受けていて、特に影響が大きかったのが中国でした。
14世紀、琉球には三つの国(北山・中山・南山)が勢力を持っていました。1372年、中国の明王朝は琉球へ使者を送りました。その使者は三つの国のうち中山(後の統一王朝)を訪れ、明王朝への朝貢を求めました。中山王の察度はこれに応じ弟の泰記を派遣し冊封を受けました。

朝貢とは貢物を明王朝に納めて服従を誓うことで、冊封とは皇帝からその国の王であることを承諾してもらうことでした。朝貢し冊封を受けることで明王朝との貿易が許されるだけではなく、朝貢として納めた贈物の数倍の返礼品を与えられました。そのため三国とも競って進貢し大陸の様々な宝物や文献・情報を取り入れ武力・財力を増やそうと盛んに取り組みました。

琉球はその後、中山の最後の王であった尚泰までの約五百年間にわたり中国に進貢を続けました。琉球からは貢物として馬・硫黄・芭蕉布・貝製品などが贈られ、明王朝からは鉄器・陶磁器などが返礼品として贈られました。

明国から派遣されてくる使節団のことを冊封使と呼び、総勢で四百人前後が大使節団として琉球に約六か月間滞在しました。

その間、貿易の締結を行ったり、明王朝の先国王の葬儀や新国王の即位式などの儀式も行いました。琉球は、この儀式により明国を中心とした東アジアの公的な一員と認められました。

冊封使一団が琉球に滞在している間は数多くの最上級の宴会が開かれ、冊封使の労をねぎらいました。その際に出された食事が琉球宮廷料理の始まりであり、飲み物には泡盛がふるまわれました。
宮廷料理は贅の限りを尽くしたものでした。

一の膳から五の膳まであり、百を超える食材が使用され、四品ずつ合計二十品の料理と数種類の点心と汁もの、十六種類のお菓子で構成されていたといわれています。

その中にはフカヒレや燕の巣などの高級食材だけではなく、ジュゴンや海ガメも食材として使われていました。

パリで山本彩香さんの琉球料理のレクチャーを受ける受講者


この宮廷料理ともてなしの心を現在に受け継いでいるのが琉球料理研究家の第一人者の山本彩香さんです。
太平洋戦後、沖縄は急激な欧米化により食についても大きく変貌してしまいました。高カロリー・高脂肪の食が蔓延し生活習慣病患者が激増しているのです。

この状況を心配した山本さんは昔から沖縄に伝わる健康長寿食の研究を重ね、そこに食の歴史的背景を織り交ぜることで琉球宮廷料理を復元しました。そんな活動が多くの支持を受け、国際交流事業の一環として昨年末に、パリ・ミュンヘン・ストックホルムの三都市で琉球料理のレクチャー・デモンストレーションを行うため派遣されました。約二週間に及ぶイベントは連日満員で毎回百五十人近くの参加者が熱心に山本さんの長寿食のレクチャーを受けました。

各国・各地の参加者は「素晴らしい」「こんなにおいしくて身体に良い料理があるなんて」「沖縄の文化の深さをこの味から感じ取れる」などの感想があったそうです。

山本さんが行っている琉球料理の研究・追求は沖縄のみならず、遥か遠くの異国でも健康と幸せをもたらせているように思えました。

山本さんから「小渡さんの塩がなかったら私の料理は出来ない」との言葉をいただき、私の塩づくりの最高の励ましとなっている事を最後に書き加えさせていただきます。



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