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 人間「おぎゃー」と生まれたら、日に少なくとも二回は何かしら食べ続けて行かないと生を全うすることは出来ない。だったら、出来得る限り旨いものを食べよう。と、妙な信念を持ったのは、二十歳をちょっと越えた頃であった。

この、『出来得る限りの旨いもの』というフレーズは誤解されがちだが、決して贅沢をしようというものではない。どうせお金を払うのならば、そのお金の範囲内でおいしいものを食べよう、という魂胆なのである。だから、仕事先で出前を取ろうということに相成っても、

「出前とるなら、食べに行きましょうよ。その方がおいしいし時間も読めるし」

なんて、生意気なことをぬかして、余り時間のない時でも外に出て食べるよう心掛けた。その方が、かえって気分転換になるのである。しかも、暖かいし麺類等は伸びておらず、明らかにひと味も二味も違うのである。そうやって、外食を重ねているうちにだんだんお気に入りの店が定まって来る。安くて旨い店の地図が、徐々に頭の中に出来上がっていくという次第だ。
  



Kubota Tamami

しかし、当時は金銭的なゆとりがないこともあって、外食をするのならば家に帰って作った方が安く済むことに気がついた。と申すより、既に所帯を構えていたこともあり、女房殿と待ち合わせて帰宅し食事を取るのである。が、六畳一間に僅かばかりの台所の狭い新居は、夫婦二人だけということは余りなかった。絶えずどちらかの友人が転がり込んで来るので、毎日が賑やかな夕食となる。

これが問題であった、二人でも苦しいのに毎日の食客だ。経済的にも大変なのである。いや殆ど収入などないのだから、最初から破たんしていたという方が正しいのだろう。だがしかし、有り難いことにアパートの界隈の八百屋さんや魚屋さん鶏肉屋達が、我々の窮状を見兼ねて助けて下さったのである。

八百屋さんは、残りものの大根の葉っぱのおいしい食べ方を教えて下さったし、魚屋さんは鯛や平目のアラを取分けて置いてくださり、その料理の仕方を丁寧に伝授してくれた。鶏屋さんは鶏屋さんで、鶏ガラや手羽先の先を用意して下さり、スープの取り方を細やかに教えて下さった。つまり、当時の僕達は商店街の方々の善意に支えられて暮らしていたのであった。


 そこで、かつての食事のメニューを思い起こしてみると、なかなかなものである。
 
*鶏スープ「洋風・中華風・和風(おでんのスープ)」
*鶏の手羽先炒め
(手羽をボイルしてゴマ油で炒め、醤油、酒で味を整え五香粉で香りをつける。現在でも、我が家の定番料理)
*塩鮭の頭のボイル(口の周りの軟骨は氷酢ナマス)
*魚のアラのアラ炊き(醤油・味醂・酒で煮付けたり、チリにしてポン酢で食べる)
*大根葉、セロリの葉炒め。(醤油味にしてちりめん雑魚を加える)
*くず野菜のポトフ(鶏スープを用いる)
*おから炒め
*おからと豚肉のハンバーグ

などなどと、現在の食卓に出しても決しておかしいものではない。というより、今でもこのメニューをアレンジしたものが我が家の食事の柱になっている。

今にして思えば、東京オリンピック前後の日本は発展途上の国であり、市民はまだまだ食べることに必死であった。どこに行ったとしても駅前の商店街は活気に満ち、夕方の食事の支度のお客さんが溢れていた。ところが、日本の経済が著しく成長すると共に、スーパー等の大型店舗が生活の中に浸透して、小型店舗は淘汰されてしまった。僕は数年前、昔お世話になった皆さんに御礼とご挨拶がしたくて訪ねてみたのだが、そのことごとくが無くなっていた。

この現実は、現在の日本の食生活を象徴しているとも言えるだろう。経済の発展と共に、我々は便宜さばかりを追求してしまったのではなかろうか。失ってはならぬものを、見失ってしまったのだ。今、日本の経済は冷え込んでいる。が、いつかは立ち直るだろう、いや立ち直らなくてはならない。その時は、人間らしい真の暮らしも、絶対に取り戻したいものである。