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そろそろ辺り一面が、紅葉となる。仄かに葉が紅を指しはじめる頃、雑木林の斜面の辺りを探索する。何をするかと言うと、自然薯(じねんじょ)つまり山芋の蔓を探して歩くのだ。多くは、クヌギなどの落葉樹の近くに根を張り、その樹木に伝いながら蔓を伸ばし太陽の恵みを受け根を太らせていく。

この山芋(大和芋ともいう)の蔓は、枯れてしまうと、簡単に根の部分から離れてしまい、寄り添った樹木に枯れ葉は残るものの、肝心の芋の部分がどこにあるものか分からなくなってしまう。だったら、早く掘ればよいということになるが、葉が枯れてからしばらく置かないと旨くない。そこで、山芋の蔓を予め見つけておき目印を付けておくのだが、これが問題なのである。山芋を掘るのが、僕独りであらばダイレクトに目印を付けられる。ところが、山芋ハンターは群雄割拠。何しろ、長さが一メートルを越えある程度の太さがあると、優に一万円は越えてしまうだろう。

そんな訳で、全くもってせこくて悲しく哀れな話だが、誰にも分からないように秘かに目印を付けなければならない。例え目印を他人に分からないように付けたとしても、その大半はうっかりすると先客に掘られてしまう。恐らく、他の方々もそれなりに目印を付けておられるのに違いない。だがまあ、一日に掘れる本数は二本が限度、そう目くじらを立てることもない。

問題は、掘る作業なのである。いくら素晴しい山芋でも、平地にあると大変だ。人間一人入って作業が出来る縦穴を一メートル以上掘らなくてはならないのだ。木の根あり岩あり石ころありで、僕にしてみれば大変な作業だ。そんな訳でなるべくならば斜面の方が有難い、十度でも十五度でも掘り起こす土は少ない方が助かる。それでも、一本掘るのには二時間は優にかかる。少しずつ芋に傷を付けぬよう丁寧に撫でるように掘り進む。芋の根が石を抱いてたりする時は本当にうんざりする。もういい、止めよう、と放り出したくなったことも何度もある。また、どんなに丁寧に扱っていても、途中でポキリと折れてしまうことも間々あるのだ。



Kubota Tamami

実際に山芋を料理する時には、適当な長さに切り皮を削ぎ落として用いる。だったら、適当な長さに折れたって構わないではないか、と我が女房殿は簡単に仰る。が、男にはたかが芋掘りとて、美学というものがある。例えどんな風に料理しようと、長さ一・五メートルの山芋には美くしさが存在する。あのか細いもろい山芋を、傷一つ付けずに掘り上げたという喜び。だからこそ、一本が万を越える価が付くのである。これは友人の話だが、一メートルを超える芋を掘り上げた後、丁寧に雑木の添え木を施したり藁を巻いたりして、恐る恐る抱えながら電車とタクシーを乗り継ぎ無事家の前まで辿り着いた。ところが、玄関を開けて家に入ろうとしたその時、鴨居に芋をぶつけてポッキリ。

いやいや、大の男が夢中になるだけあって、自然薯の味というものは格別である。勿論、市販の栽培ものだって料理しだいではおいしい。しかし、天然のものには独特の香りがある。皮を剥いて短冊にして、塩をパラパラと振りかけるだけで、充分においしいのだ。草の香りのような野趣味溢れた力強さに加え、懐かしいような甘さを感じる。擂り鉢の縁で丁寧に下ろし、擂り粉木でゆっくり当たっていると、それはそれは優雅な気分となる。

檀流のトロロ汁の味付けは、少しずつ出汁を加えながら味を整えて行くのだが、煮干しと昆布を合わせたものを作り、それを味噌で味を整える。つまり、やや濃いめの具のない味噌汁と考えて頂ければ間違いない。どの程度出汁を加えるかが問題だが、僕は山芋と同量かいくぶん出汁を大目にしている。

山芋を出汁で薄めるのは、いささか勿体ないような気がしないでもないが、完成品を麦御飯にかけて味わうと、キリがない程に箸が進む。このあたりになると、もう個人の好みの問題でしかないので何も言うまい。ただ、プリミティブな濃厚なトロロを味わいたい時だけ、芋をたわしでよく洗い皮ごと下ろし金で擂り、御飯に乗せてかつお節と生醤油だけで味わう。まことに粗野ではあるが、これはこれで風味があって素晴しい。もう一つ、皮だけの料理。剥いた皮は捨てずに千に切り、これに下ろしワサビとカボスのような柑橘類を絞り、醤油で味を整え酒の肴にする。山芋を掘り当てた喜びと、秋の恵みの素晴しさが相まみえ、言い様のない幸福感を味わえるのである。