13




ここ二十年ばかり、年末にモチツキを続けて来た。モチツキを始めた動機は、仕事仲間とマージャンをしている最中、

「あー、嫌んなっちゃうねー。こんな年末にマージャンなんかしないで、健全に正月を迎えたいよなー」

誰かが、ぼやいた。コマーシャルフィルムの制作をしている我々は、年末最後の仕事を完成させるべく、現像所の仕上がりを待ちながらのマージャンであった。

「健全な家庭は、今頃モチツキをして正月に備えるんだよ」

「モチツキかー、いいなー。俺一回もモチなんかついたことないよー、やりてーなー」

「よし、やろう。道具は何とかなるよ」

てな具合で、モチツキが始まった。

最初は、三十人くらいのメンバーで、仲間が必要なだけモチをつけばよかったのだが、次第にその規模が増大していった。友人の高見山にお願いして、若くて元気のよい相撲取りに加勢を頼んだ。さすがにお相撲さんは力がある、我々が二、三人かかってようやくつき上げるモチを、彼等は一気に仕上げてしまう。だから、出来上がったモチは極め細やかな上に熱々で、仕上げを担当している女性達が悲鳴を上げていた。

しかし、加勢に来てくれたお相撲さんが出世すると同時に、参加者もふくれあがってしまった。最高は二百七十人という年もあった。こうなると、誰が来てくれたのかも分からなくなるし、持ち帰って頂くモチの量も計算出来なくなる。用意する料理だって、半端なものではない。余りの騒ぎになり、交番のおまわりさんまで来る始末。ちなみに、来て下さったお相撲さんは、水戸泉、小錦、曙というそうそうたる面々である。


Kubota Tamami

したがって、モチツキが終わると僕も女房殿もぐったり、こうなると正月を晴れやかに迎えることなど無理というもの。そこで、もうお相撲さんを呼ぶのは止めよう、しんどくても我々だけで何とかしよう、ということになり規模を縮小した。数年は、いい状態が続き、平和なモチツキと健全な正月が迎えられた、と言ってよいだろう。が、長男と次男が相次いで結婚して家を出てしまうと、モチツキの準備が出来なくなってしまった。数人の友人が手伝いに来てはくれるものの、前日と当日と翌日の三日間はお願いし難い。となると、夫婦二人でことを解決せねばならない。とは申せもう若くはない、よい正月を迎えるには年末に無理をしてはならない。こう結論を出し、二十年続いたモチツキを一旦止めることにした。いつの日か、息子達が再開するのではあるまいか。そう願い、道具はそのまま保管しておくがよかろう……。


という顛末で、年末年始はスリムになった。幸い、正月用のモチは新潟の魚沼からおいしいものが届くので心配はない。大晦日には友人が打ってくれる蕎麦を煮蕎麦とざるで味わい、除夜の鐘を聞きながら近所の神社に初詣。一寝入りしてお屠蘇を頂き、雑煮と簡単な節料理を味わうことになるだろう。我が家の雑煮は博多雑煮だ。鶏と昆布と焼きアゴ(飛び魚を干してから焼いたもの)で出汁をとり、かつお菜(高菜の一種で、葉が縮れている)、塩鰤、干し椎茸を戻したもの、里芋、蒲鉾、鴨(軽くローストしておく)、焼きモチなどを椀にいれ、薄口醤油と味醂、酒で味を整えたスープを加え、仄かに柚子で香を加える。 節の方は、ごまめ、黒豆、大根と人参の紅白膾、数の子、がめ煮(筑前煮)、焼豚くらいであろうか。そうそう、塩漬けにした和牛のタンをボイルしたコーンド・タンと、鶏の手羽先を茹でた後胡麻油で炒め、酒と醤油と五香粉で味を整えた料理は欠かせない。この料理、女房殿が檀家に嫁ぎ父から最初に伝授されたものである。なにも、節に加える程のものではないが、原点に戻るという感じで毎年味わっている。

二日目辺りになると、ぼちぼち友人達が押し掛けてくるから、彼等には節を味わって頂いた後に、ラーメンを馳走する。スープは、地鶏(軍鶏)を丸のまま寸銅鍋に入れ、ネギ、タマネギ、ニンニク、ショウガ、セロリの葉、をブーケにして加え、あれば中国の金華火腿(中国ハム)も少し入れ、弱火でゆっくり煮込む。鍋の中の鶏が柔らかくなりかけたら、その時がスープの一番旨い時。丼に、自家特製のXOソース、ニョクマム(勿論、自家製)などで味を整えたスープと固めに茹でた麺(時には手打ち)で、トッピングは、焼豚、もやし、ワカメ、茹で卵、揚げニンニクくらいだろうか。青唐辛子を刻み入れ、ピリリとさせる。こんなところが檀家の正月模様であるが、出来る限りひっそりと過したい。