父、井上靖と“ご馳走”

井上 卓也 著述業



取材旅行中に、北京 天安門広場にて。井上 靖ご夫妻、左側が筆者。


父の仕事場は自宅であった。仕事場とは原稿を書いた場所という意味である。
 
父は取材して、小説を書くタイプであったから、国内は勿論、海外へも方々出掛けた。そういう意味では、父の仕事場は、あっちこっちに在ったと言えるが、その取材の成果を原稿用紙の文字に置き換える作業は、すべて自宅でしていた。だから、取材の旅に出ている以外は(父は、いわゆる観光旅行に行ったことは、生涯一度も無かった)家で食事をしたことになる。だから僕は、独立するまで、毎朝晩、父と食事を共にした。勿論、仕事上の会食は、随分、外でしていた様だから、月の半分の夕食を、父と共にしていたぐらいの勘定になろうか。

父は食事で贅沢をする人ではなかった。母や手伝いの者が作ったものを、喜んで食べた。いわゆる煮ものや煮魚などを中心にした家庭料理である。ただ、勿論、好みはあった。さっぱりしたものより、どちらかと言えば、脂っこいものを好んだ。とくに、書くべきものが山積み状態の時には、相当にエネルギーを消耗したらしく、「おい、ふみ(母の名)、今日はウナギを喰いたいな、ウナギが無いなら、トロでもいい。」

などと言っていたが、それは常の事ではなかった。

だいたい父は、有名料理屋の、美味、珍味なるものを喜ぶ人ではなかった。それは、ご馳走を食べ慣れてしまったから……というのではなく、父の食に対する基本的な姿勢が、この辺に隠れていた。

つまり父の食の好みの基本は、客観的なご馳走にあるのではなく、自分が美味しいと思うものがご馳走なのであった。

その日、仕事をしっかりやった自分に対して客観的なご馳走であるウナギを褒美として食べるのではなく、その日は、 自分にはウナギが美味しいと思うから食べるのであった。
 
どこかの料亭での会食から帰って来ると、父はよく、こんな事を言っていた。
「どこの、どなた様が煮たサトイモか知らんが、家の芋の煮ころがしの方が、余程うまい。」

まあ、父は微妙な味を選り分ける舌を持ち合わせなかったとも言えるし、母に言わせれば、安上がりだったとも言える。

◇   ◇    ◇

 我が家での夕食は、家族だけの時は、半分ほどしか無かったのではないか。とにかく来客が多く、自然とお客さまもご一緒に…ということになった。

と言っても、余程の人は別として、特別扱いしないで、家族と同じものを召し上がっていただいた。それでも、母や手伝いのものは、大変だったろうが。だから食事は、いつも賑やかだった。僕の兄弟四人、父と母、それに同居していたもの数人(父の秘書とか親戚の者)それに客人…と言うぐあいだったから、特別な料理など無いと言っても、しょっちゅう宴会みたいなものになった。父は食べるとゆうよりも飲むとゆう人であった。アルコールが入っているものなら何でも飲んだ。あれだけ大量の仕事をしながら、よく酒をのむ時間を作ったものだと今でも感心する。

そして、食卓での父の演説がはじまった。父は多弁であった。特に酒が入ると、子供たちに言っても仕方がない、これからの仕事の事や、果ては天下国家論にまで及んだ。それは、子供たちや客に聞かせるとゆうよりも、自分に言って聞かせている様に感じられた。

◇   ◇    ◇

 さて、父の“ご馳走”に話を戻そう。父の食の好みには、極めて明瞭な原点があったのだ。父は幼い頃、郷里の伊豆、湯ヶ島という温泉場で「おかの」と呼ばれた老女と二人だけで暮らした。「おかの」は本当の祖母ではなく、血縁の者の妾であった。その「おかのばあさん」が食事に出したものが、父の考えていた“ご馳走”だった。大正前期の頃のことだから、それは粗末な献立だったと想像されるが、この老女は、当時、既にカレーライスを作って父に食べさせていた。彼女が若い頃暮らした下田で覚えた、じゃがいもとにんじんと、缶づめの大和煮が入ったもので、当時としては大変しゃれたものであっただろう。父にはこのカレーライスが、日本で一番美味いカレーライスで、有名店のカレーなどはカレーではなかった。このカレーの他には、金山寺味噌(きんざんじみそ)のお茶漬けとか、ダイコン(千六本)のみそ汁とかが、父の“ご馳走”であった。僕など、既に飽食時代のハシリに育ったものには、何の変哲もない粗食であったが……。

要するに、人は幼い頃美味しいと思ったモノからは一生逃れる事はできないらしく、僕も、生まれて初めて、母に外で食べさせてもらった「不二家のハンバーグ」は、今でも有数の“ご馳走”なのである。

正月号なので、本来なら、父と正月料理について書くべきであったが、父は、正月には客に埋もれて、もっぱら酒びたり。なぜか、親子なのに下戸な僕にとっては、正月と言えば、父のあんまり恰好の良くない酔っ払い姿と下手な歌が、しきりと思い出されるばかりなのである。