戦争のさ中、中支の野戦病院の重病病棟に細菌性赤痢とマラリヤの合併症で、ほうり込まれた時の事である。その病室では六名ずつ向き合って十二名、ほとんどが末期を思わせる寝たきりの兵隊達で埋まっていた。だが結構みな口だけは達者だった。出てくるのは食べものの話だけである。

天どん、カツ丼、すし、肉どん、すき焼き、うなどん、単純明快、兵隊が夢に見るご馳走を並べたてるのだが、それも腹一杯を所望する。

「喰いてぇなー」天井を仰いで歎息するその声の切なさ、並みの役者の真似できるところではない。

手打ちそばの話が出ると、信州生まれの一等兵が「ほんものはコシが強くてしこしことこくがある。それでいて口に入る時はやわらかくつるッと」なんて、顔をもたげてなんとも巧い口許に、こっちも思わず、よだれをたらしたものだった。

終戦となって私達の自動車隊はソ連の指揮下に入ったが、独自に内地へ帰ろうという兵隊達に加わって私も隊を離脱、満州放浪の旅ということになった。思えば命からがら、本渓湖という炭鉱町にたどり着いた。

「食」について、誰しもそうであろうが、私は時折、八十なん年、一体なにが一番美味かったかを想うのだが、終戦直後の荒廃した本渓湖の町の屋台で食べたどんぶり汁が真っ先に浮ぶのである。客は私と戦友二人、注文した品かどうかも記憶にない。屋台の親爺は鍋に豚肉を落とし、白菜が加わってしばらく鍋が上下した後、豆腐が投げ込まれ、具はこれだけであった。鍋が小きざみに動いて、白菜と豆腐の溢れたスープが音をたてた。そして最後に仕上げというやつか、油で汚れた一升瓶の口を親指で押さえて一、二滴たれを落して、どんぶりいっぱいの汁が出来上がった。絶妙の芳香、どんな気ぶせも吹っとぶ美味だった。私と戦友は内地へ帰っていくたびか、あの汁に挑んだがまったく駄目だった。「やっぱりあの黒茶色のタレだよ」とあきらめるよりほかなかった。


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