私は子供の頃、刺身が食べられない時期があった。もっと小さい頃は大好きで、父がほぼ毎晩食べる習慣となっていた刺身を、一切れ二切れ私の口に入れてくれていた。ところがある日、二歳年上の兄が「マグロの赤いのは血なんだよ」と言った。兄が軽く妹を脅かしてやろう、ぐらいのつもりで言った悪気のない一言だった。しかし私はその途端、刺身が食べられなくなった。子供の頃に聞くほんの一言が、その子の人生を大きく変えるものだ。

刺身を食べられなくなった私は、そのまま歳を重ねて十六歳になった。そしてテニスプレーヤーとして、夏休みを利用してジュニアトーナメントを回っていた。カリフォルニアのナパ・ヴァレーの近くで試合があった。ナパ・ヴァレーにJALのパイロット訓練所がある。JALの方がそこに私を招待してくれた。十六歳の私にとって、それはエキサイティングなことであり、しばらく話さなかった日本語を話すチャンスでもあった。

訓練施設をまず見せてくれた。そしてランチ! トーナメント中はステーキだ、サンドイッチだ、ハンバーガーだと、アメリカンなものばかりだった。私はテンプラかな? 焼き鳥かな? と心待ちにして食事を待った。十人掛けくらいの長方形のテーブルに私が座ると、訓練中の男性二、三十人に囲まれた。彼等も日本の女性には長らく会っていないということで、私の訪れを楽しみにしてくれていたのだ。久しぶりに日本食を、私がどんなに喜んで食べるか期待しているように見えた。私に対する質問と笑い声が絶えなかった。と、そこに出てきたのが『刺身』!

私は息を飲んだ。見回すと輝いた笑顔に囲まれていた。困った。私は意を決して、みんなの注目の中、マグロの刺身を口に放り込んだ。美味しかった! ナーンダ美味しいや。温かいご飯とマグロが私の口の中で混ざってとろけた。それ以来また刺身が好きになった。


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