尋常高等小学校三年生の春、世田谷から今の三鷹市に引っ越した。当時は東京府北多摩郡三鷹村でまわりは雑木林と畑ばかり、真冬は夕方五時を過ぎると真暗だった。級友の半数は農家の子供だったと思う。通学は藁草履か裸足、遊びは畑仕事の手伝いで土に親しみ農作業を覚えた。今元気で居るのはその所為かも知れない。我が家でも畑を借り父と二人で大麦、小麦を始めあらゆる葉物、根菜を作った。生ゴミ、乾し草を糞尿で発酵させた堆肥が行き届いて、薩摩芋などは本職より獲れた。喉が乾いたら畑のトマトや胡瓜を齧った。口一杯に香りと甘味が広がった。秋には柿も栗も雑木林で色づいた。糠漬けもうちの野菜、味噌汁の菜もその時畑から取って来て間に合った。暮らしの周りは季節々々の新鮮な作物と香りで満ちていた。

中学三年の終戦直前の二ヶ月、埼玉県松久に勤労動員で狩り出された。重い糧秣の様々な箱を駅から山中に運搬する重労働だった。暑さと空腹で貪る様に食べた桑の実で、口の中も野糞も同じ紫色だったのには驚いた。ある晩、駅に野積みの荷が盗まれぬ様、級友五、六人と不寝番に就いた。田圃からは一晩中蛙の大合唱、貨車には昼間の機銃掃射の穴があちこち月の光を差していた。野積みの樽は丸亀の鰹節だった。思わず手が伸び、夢中で一本を齧り二本目の途中で夜が明けた。そのうまかった事! 顎が痼って朝飯が食えなかった事! 今思えばただ懐かしい。

戦後、六本木に通うようになり、ババロアとかシュークリームとか別世界と思える味を知った。でも身近な食と味はやはり家庭の味である。ある町で、街中で買えば一本二、三百円する大根が倍もある様な姿で作者の名前付きで百円なのに感激した。鶏の皮と手羽先、皮をむいた大根を輪切りにしてたっぷりの水に漬け、少々の味醂と酒と醤油でじっくり煮込む。簡単だが奥深い料理だと思っている。そろそろいい季節になる。深鍋を用意しなくては。


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