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ローマ? それともパリ?

離れた土地からの電話は、たいていうれしい便りだ。暗い空に氷雨のその日もそう。阿蘇山の麓、矢部の本田さんの声だ。いきなり、

「イノシシ食べますか?」

「まえーに高山で二キロぐらい買って帰ったことがあるわ。どんなお料理にしたか覚えてないけど」

「じゃ、送りましょうか。イノシシをしとめて友達と解体したんで」

宮崎県との境は九州山脈でイノシシが走りまわっている。友達が撃ったのを、山で毛皮を熱湯をかけてはぎ、内蔵を取り出してバラした。届いたのは三つの包み、赤い肉の塊は牛肉のランプステーキと似ていて、へりに厚い脂身が3センチもついてる。赤身だけのはモモ、脂身のついたのは胸の肉。

「野生だから、脂で寒さふせいでいるのね」

イノシシは昔から山のご馳走、クマよりもおいしい。クマの手は以前「フードピア金沢」で、白山の麓の吉野谷村で山菜とハーブのスープ仕立てで食べておいしかったけど、野獣は料理法によってはヒェー!となる。最近も友達が残念がっていた。

「日高の馬牧場でクマの掌を10万円も出して手にいれたけど、脂ごってりで食べられなかったの!」

友情イノシシはおいしく食べなくちゃ。

「どうする?」娘と相談。

「普通は牡丹鍋ね、でもそれじゃ面白くない」

食堂の隅に積んである分厚い外国の料理の本を抜き出して調べたけど、ラルースやエスコフィエにはないし、現代の料理本には、鹿や野鳥までだ。

「アピーキウス 古代ローマの料理書」を覗いてみた。イノシシのレセピとソースがたくさん出ている!アピーキウスは身代を傾けて美食人生を送った古代ローマの貴族。ある日財産が残り少なくなったのを知って、美食生活を続けられない人生は無意味と、服毒自殺したディレッタントだ。

「それにしても二千年まえのお料理より、せめて千年ぐらい手前でないかなあ?」
「ロートレックはどう?」

ベルエポック時代のほうが古代ローマより味覚が近そうだ。本棚から取り出したそれは「美味三昧」。座右宝刊行会が1974年に出した贅沢な本で、どのページにもロートレックのクロッキーが地に薄色で印刷され、そこに彼の料理法が重ねられている。ロートレックは自分で料理する美食家で、料理も絵とおなじ芸術と考えていた。本の題名も「料理の芸術」だ。

個展のときはもちろん、機会があれば友達をオリジナルの手料理でもてなし、メニュまで描いたという。そのメニュをとっておいた友達は、今頃額にいれて家宝にしてるのだろう。この料理本は、彼のミュージアムを建てた永年の友で、共に料理を楽しんだモーリス・ジョアイヤンがまとめた友情の証だ。


ロートレックはおいしかった


ロートレックはこうやった

ページをくると、ある、ある。「野鳥・野獣の肉あれこれ」の章に〈オルレアンの森のイノシシ〉。パリがオルレアンなら、私は阿蘇山のイノシシだ。

イノシシの肉は、鼻で嗅いでわからないけど、食べると臭みがあるのだろう。アピーキウスのイノシシ料理は、ローストと水煮が数種類、どれも香辛料とハーブとリクァーメン(魚醤)の多用が特徴だ。

たとえば塩とクミンを肉にふり、焼き上がったあと胡椒、蜂蜜、さまざまなハーブ、リクァーメン、ワインをかける。五種類あるソースはセロリー、タイム、ディル、オレガノ、ナットメッグなど、ハーブがたっぷり使われている。でもアピーキウスはイノシシをあらかじめマリネしないのが不思議だ。

ロートレックはマリネする。玉ネギのザク切り、にんじんスライス、エシャロットを軽く炒める。そこに塩、胡椒、芳香コショウ、唐辛子、ピーマン、クローヴ、タイム、ローレル、白ワインと水を加え、15分煮る。肉の塊をこれで漬けこむ。

私はロートレックにないレモンピールやミカンの皮を足し、アピーキウスを真似てイシル(能登の魚醤)も入れ、肉にぶつぶつ穴を開けて二日間漬けこむことにした。

「ママ、混ぜすぎよ。フランスとギリシャじゃ」

娘が不安顔をする。私は鼻で笑って、

「ギリシャじゃないローマよ。あの頃のフランスは植民地のナンプラー(魚醤)を知らないから使わなかっただけ。いまエリゼ宮だって隠し味にお醤油いれるじゃない」

三日目の今日、お昼からロートレック流で煮はじめた。漬けた肉の小さめの半分を(おいしくなかったら困るので安全パイ)白ワイン一カップ、同量の水、濃いめのビーフブイヨン、塩、胡椒、タイム、クローヴ、ローレル、パプリカ、パセリ、セージ、ブーケガルニ――ハーブと香辛料の山! で覆い、分厚いコプコの鉄鍋で弱火で1時間。

娘が、パリの友達がくれた四種類の香辛料のミックスを香り付けに少し加えた。500グラムにつき15分と本にはあるけど、イノシシは固いから、1時間煮て、火をとめたあと1時間蒸らした。

やがて蓋をとるとプンと香辛料のいい香り。水分はたっぷり残っている。薄く切って口へ。おいしい!ビーフのポットローストに似てるけど、牛より香りがよく、軽い味だ。

娘とにんまり。

「よかった! これなら成功!」 

食べるときは、ベアネーズソースか、煮汁にウースターソースを加えてブラウンソースにする、とある。私は前者でいこう。つけあわせは、ポテトの薄切りフライとあって、うーん、これもおいしそう。

本田家では、味噌仕立てと野菜いためで食べた。

「昔は冬とったイノシシを辛口味噌に漬けこんで、夏に食べたんだそうです。いまはすぐ食べるから甘味噌で、漬けたあとちょっと陰干しして、野菜と炒めます。この間NHKの『現代の目』のスローフードにイノシシ料理で出たんですよ。お袋の知恵教えてもらってやりました」

「あら、そんなときは見たいから教えてね」

本田さんのお母さんは、クルマいすだけど健在で、いま生きる〈むかし料理〉でニコニコしてる様子が目に浮かぶ。