ここ二ヶ月ばかり、朝はジュース、昼は蕎麦かシンプルな麺類という生活を続けている。さしたる飢餓感も焦燥感なく、適度な運動も生活の一部になりつつある。
だが、人間の欲望と言えばよいのだろうか、はたまた煩悩のなせる仕業なのであろうか、不味いものがとことん鼻に付いてしまうようになって来た。例えば、蕎麦を食べるとする。日頃お世話になっている数軒の店は問題ないのだが、飛び込みで入る店の味の程度の低さには、心底うんざりする。蕎麦の麺はもとより、出汁をどうやって取っているのか、調味料にどんなものを用いているのか、呆れ返るばかりである。
結構立派な店構えで、客もそこそこ入っている店でも、本当に真剣に調理をしているのだろうかと疑いたくなることがある。温かい蕎麦が運ばれて来ても、出汁のよい香りがしない。あれれと思って汁を啜る、残念ながらあくの強い醤油味が先に来て、次に人工的な調味料の独特の味わいが口の中にこびりつくように残る。手打ち蕎麦という看板に誘われて入ったのに、それ以前の問題であった。この店ばかりではない、最近は出汁に関しては嘆きの連続なのである。
これは、客にも責任があると思う。恐らく、昔の人達は、天然の素材を用いてきちんと出汁を取っていたと思う。何故なら、今のように出汁を取る為の化学調味料がなかったからである。第二次世界大戦の後の物のない時代の化学調味料は、それはそれは便利で素晴らしいものであったと思う。だが、所詮代用品であったのだ。本物の昆布や鰹節の香りや風味までは、絶対に出すことは不可能であった筈なのに、昨今は人工的に匂いもつけられるようになってしまった。となると、商売人もこうした安易で廉価なものを使う。悲しいかな客は、本来の味とは程遠いものに慣らされてしまう。
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