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ここ二ヶ月ばかり、朝はジュース、昼は蕎麦かシンプルな麺類という生活を続けている。さしたる飢餓感も焦燥感なく、適度な運動も生活の一部になりつつある。

だが、人間の欲望と言えばよいのだろうか、はたまた煩悩のなせる仕業なのであろうか、不味いものがとことん鼻に付いてしまうようになって来た。例えば、蕎麦を食べるとする。日頃お世話になっている数軒の店は問題ないのだが、飛び込みで入る店の味の程度の低さには、心底うんざりする。蕎麦の麺はもとより、出汁をどうやって取っているのか、調味料にどんなものを用いているのか、呆れ返るばかりである。

結構立派な店構えで、客もそこそこ入っている店でも、本当に真剣に調理をしているのだろうかと疑いたくなることがある。温かい蕎麦が運ばれて来ても、出汁のよい香りがしない。あれれと思って汁を啜る、残念ながらあくの強い醤油味が先に来て、次に人工的な調味料の独特の味わいが口の中にこびりつくように残る。手打ち蕎麦という看板に誘われて入ったのに、それ以前の問題であった。この店ばかりではない、最近は出汁に関しては嘆きの連続なのである。

これは、客にも責任があると思う。恐らく、昔の人達は、天然の素材を用いてきちんと出汁を取っていたと思う。何故なら、今のように出汁を取る為の化学調味料がなかったからである。第二次世界大戦の後の物のない時代の化学調味料は、それはそれは便利で素晴らしいものであったと思う。だが、所詮代用品であったのだ。本物の昆布や鰹節の香りや風味までは、絶対に出すことは不可能であった筈なのに、昨今は人工的に匂いもつけられるようになってしまった。となると、商売人もこうした安易で廉価なものを使う。悲しいかな客は、本来の味とは程遠いものに慣らされてしまう。



Kubota Tamami

だから、本格的な方法でしっかり出汁をとり、おいしい味を醸し出している店を、ややもすると物足りないだとか味が薄い、と勘違いしてしまう場合が多い。しかも、そうした店は比較的に高めである。土佐の枯れ本節を使ったり、羅臼や川汲浜の天然ものの昆布を使えば、値段が上がるのは致し方ないだろう。醤油や味醂の単価だって、馬鹿にはならない。おまけに、国内産の蕎麦粉を用いれば、盛り蕎麦の値段が千円近くなったとしても、これは致し方ないと僕は考える。

しかし、出汁の取り方はそれほど難しくはない。鍋に水を張り、濡れ布巾でさっと拭いた昆布(これは、日高でも羅臼でも構わない。自分の好みに合わせて頂きたい)をしばらく浸しておく。水道の水がカルキ臭かったら、思い切ってミネラルウォーターを使おう。昆布を水に浸す時間だが、こだわりのプロは前日から一晩漬け置きという水出汁(これは火にかけない)方式があるが、我々はそこまですることはない。一時間程度浸して火にかけるが、これは余り火を強くしない。湯が沸く寸前で昆布を出し、鰹節を入れて一煮立ちさせ火を止める。しばらくして、鰹節を掬い取り、酒、味醂、醤油で味を整える。間違ってもここで旨味調味料など入れないで欲しい。醤油の濃さやメーカーは、これは好みだ。

いい出汁で作った蕎麦やうどんはこよなくおいしい。勿論、出汁に鶏や豚を使ったって一向に構わない。先日、長野に行った際に霜降り茸というキノコに出会った。いい出汁が出ると聞いたのでパックに入っていた十四、五本のキノコを水から煮て出汁を取ったら、これがべらぼうに旨かった。キノコはすっかり出汁を放出して、すかすかになっていたが、吸い物にしたら品があり口当たりがよく、久々においしいものを頂いた有り難みを感じた。ともあれ、もう一度出汁を見直して頂きたい。


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