店主敬白・其ノ七



過日、米国の大手ホテルグループの副社長とお会いして、色々、業界の話をお伺いしていたところ、彼は私に「East Meets West」の事をどう考えているかと聞かれた。つまり、クロスオーバーした無国籍創作料理の事である。私は「料理界の発達の為には良いと思う」と答えた。私は料理の交流は歴史上でも料理の発展に大いに貢献した事実が残っている事も言い添えたのだが、彼は、それには同意するが、料理の国籍までなくなる事を心からなげいていた。確かに無国籍料理は世界的な傾向であり、以前よりテレビでは、鉄人と呼ばれるスター料理人が珍しい料理、つまり国籍を飛び出した料理を披露し、試食する有名人もそれをほめちぎる番組等々、多種多様な料理番組が、人気をあびている。しかし、私など、テレビを見ながら「はて、あの料理は本当においしいのだろうか?」と首をかしげてしまう時もある。

料理にはどうしても曲げられないルールがある。また、相性もある。これは、科学的にも、すでに解明されている事であるが、人間は、昔から、体験的にそのルールを確立していたのである。それが、いとも簡単に無視されているのを見て、やはり、疑問に思わずにいられない。テレビで試食者が「○○の味と○○味が絡み合って、今までに味わった事のないおいしさ」等と誉めているが、私が想像してみた味はどうみても異様な時がある。そんな時私は「料理は食べ物だけれど、食べ物は必ずしも料理ではない」という言葉を心の中で叫んでしまう。確かに、料理人と言えども、テレビスターになってしまえば、魔法使いのように、次々と料理を生み出さなければならないだろう。そうすれば、どうしても料理の国境を犯し、さらには、パフォーマンスに走らなければならないが、料理の深さを考えてみたら、魔法等決してない。一つの料理を創作する事は、苦しんで苦しんでやっと生まれる。一年間何も浮ばない時だってあるだろう。私共の料理長達も月に四つ位の献立をたてなければならないが、私は、献立がうまくたたない時は、決して無理しないように言っている位である。そんな時の為に、今迄の全ての献立を保管しているのだから、古い献立を活用すべしと言っている。自分が満足できてない献立では、料理がおいしい訳がないからである。献立は料理の組合せである。その組合せさえ、うまくいかない時があるのに、まして、毎週々々テレビ番組に合わせて、視聴者が驚くような料理を創作していく事は不可能であろう。

かなり前の話だが、何人かで、料理の番組を見ていたら、テーマである食材が、本物ではないのである。私があれは間違っていると言ったら、一緒にいた人達は、テレビが間違えるわけがないと言う。私は絶対に違っていると言いはったら、知人が「今、その番組に電話して聞いてやる」と言って、電話をかけてくれた。だが、録画で、担当者もいないからわからないとの返事だった。そこで、出演していた料理人が経営している店に電話すればわかるだろうという事になって、知人がその店に電話して聞いたら間違いないとの返事だった。知人は電話を切るなり「君の方が間違っていたよ」と笑って言うので、私も少々むきになって、「今、電話に出たのは本人自身か」と聞いたら違うと言うので、嫌がる知人にもう一度電話して、「あれは、本当は○○でないかと」と本人に聞いてもらう事にした。本人が電話に出てくれて「その通りで、録画直前、材料が良くなかったので同じ様な物で代替した」との返事だった。私もやっと汚名を挽回したが、知人は有名人と話をした事をすごく喜んで「やはり、偉い人は違うね。頭が下がるよ。偉いね」と感激していた。私は、毎週料理番組を作る大変さを痛感した次第である。

さて、「East Meets West」の話にもどるが、前出の副社長は、「料理には必ずふる里が必要である」と力説する。彼のホテルグループは世界中にホテルを有している。その世界中のホテルが、料理の流行を追っている内に画一化されている事を恐れているようだ。私など、日本の中だけで料理を考えているが、彼の視野は地球的である。私は世界でその様な事が起こっている等、知るよしもなかった。私も、無国籍的な料理の創作を手がける事はよくある。しかし、自分では、しっかり、日本の料理に根付いているとの自覚をもっていたが、安直に世界の料理をパクるのでなく、日本料理の発達という義務を背負って料理に臨むべきであると、この時、心に痛感した。なぜならば、世界中で料理は創作されているが、本当に流行るものは少ない。だから、世界中でそれを取り入れる。彼が嘆く画一が生まれてしまう。「料理にはふる里がなければならない」――その言葉は、今では私の言葉でもある。


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