店主敬白・其ノ壱



私が六本木のレストラン一号店を開業してから、もうかなりの年になる。二十七歳の時であった。まさに零からの創業であったが、比較的早い独立であったのも、子供の頃の環境に影響されての事であろう。物心ついた時から、私達の住居は父の経営するホテルと料亭の一角にあったので、店の調理場は私の格好の遊び場であった。日本料理とフランス料理の調理場が一つになっていたので、板前さんともコックさんともよく遊んでもらった。大学に入ってからは、やはり父が経営する別のホテルでアルバイトをするようになったが、調理場へ入っていくのが好きだった。どことなく凛とした雰囲気に触れると、子供の頃の調理場と同じ空気の味わいがあり居心地がよかった。

このホテルは、フランス料理が主であって、和食の調理人にとっては肩身の狭い職場であった。私はアルバイトと言いながらも仕事が楽しくてしょうがなかったから、ほとんど寝るのも惜しんで仕事に励んでいたので、それなりに自分の立場というものを築いていた。そんな時、ある一枚の料理写真が私の心をとらえた。単なる刺身の盛り合わせの写真ではあるが、その料理は卓抜した力強さがあり、今まで見た事もない斬新さが私を魅了した。作者は以前にいた板前だというが、「彼はむずかしいよ」と上司に言われた。「腕は超一流だけれど、気分でしか仕事をしないし、人に使われるのが嫌いで、どこの店も長続きした事がない」とも言われた。私も若かったせいか、そんな事を聞くとどうしてもその彼に会いたくて、彼の家へ訪ねて行った。奥さんが出てきて、半年も家に帰ってないから連絡がつくかわからないとの事だったが、なんとか連絡がとれて彼に会えた。四十歳を少し越えた歳だが、背広姿が似合うなかなかハンサムな料理長であった。色々調整して、彼に再度そのホテルで働いてもらう事となった。一つだけ条件がついた。和食の売り上げを四倍にしてくれという事であった。ともあれ、彼の入社日から、彼は私の日本料理の師匠になったのである。彼は本当に親切に日本料理の「い・ろ・は」から、真髄に触れる事まで、丁寧に教えてくれた。その頃、私は食材の仕入れもやっていたが、彼の注文の仕方というのは、全くぶっきら棒なもので、例えば「刺身百二十人前、焼物七十人前」等としか書いていないのである。だから、彼は今どんな魚を使いたいのか、そして彼の好きな魚の大きさは、彼の刺身の柵(刺身の切り幅)はどれくらいか。この魚を焼物にする場合、彼はどこをどの大きさに包丁するか等々、市場ではいつもピリピリしながらの仕入れだった。野菜でもちょっと鮮度が落ちていたり、大きさにばらつきがあると木箱ごと投げてくる。包丁を投げられたことも一度や二度ではない。何年かして、私が仕入れた物を見て「あんたも一人前になったな」と言われた時は、胸にぐっと来るものがあった程である。今考えると、彼ほどに多くの優秀な料理長を育てた人はいない。厳しさと、教え方のうまさは天下一品であった。

そんな彼と売り上げを四倍にする方法を考えた。今では考えられない事だが、当時は和食とは会席料理の事であり、お座敷で供されるものだという時代で、レストランで和食を出す風習などほとんどなかったのである。ところが、そのホテルには座敷が四部屋しかなく、必然的にレストランで和食を売っていくしか道はなかったのである。もちろん料理人も会席というコース料理ではない、一品ずつの料理という概念が全くないのである。会席料理は、供される個々の料理が次々と韻を踏んで一つの流れを形成し、全体をもって一つの料理という思想の上になりたっている。だから、その中の一つの料理を取り出して、一品としての付加価値を付けるという作業が必要である。その時代の板前は、「米」は炊かない、「漬物」は漬けない(全て女性の仕事になっていた)、「そば」ですらそば屋のする事として、触れたがらない。そんな気風の中、数ある会席料理の中の一品に光をあて、その一品で料金が付けられる料理を創るのである。分量にしても、喰い切りサイズから一品サイズに、味も独立した味に、名前も専門用語から誰にでもわかる名前になど。さらに和食では、素材の季節感にこだわるが、レストランではデビューさせた一品は、長い間メニューに載せなければならず、板前の季節感を無視しなければならなかった。こんな大作業は、彼なくしては出来得るものではなかった。そして、それはとても長い間続けられたのである。

現在、和食レストランで何気なく供されている料理には、この時の作業によって生み出され、彼の弟子達や熱心な料理人によって広められたものがずいぶんあるのですよ。もちろん、和食の売り上げを四倍にするという条件は、当初のうちに達成してしまった。先年、彼は亡くなったが、私は今でも料理を進化させたいという情熱を捨てられないでいる。



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