店主敬白・其ノ弐



私がレストランを創業した頃は、ワインに馴染んでいる方が少なく、ワインを売るにはワインの薀蓄を述べる事が重要であった為、ワインの勉強が必要であった。ずいぶんと書籍も調べたし、プロの講習を何度も受けた。そのメモに基づいて、何を売り込むのか、あるいは何を講釈たれるのか作戦を練ったものである。その頃の苦労話は又の機会にでもお話したい程である。その後、何回かのワインブームがあったが、その都度、当時のメモを取り出して社員の教育等に使った。
今、そのメモを見ているうちに一つの物語が出来てきた。あくまでも私的なメモですが。さて、少しワインの世界に入ってみましょうか。

ワインが出来るメカニズムは日本酒より簡単で、ぶどうを潰してやればぶどうの持つ糖分に空気中の酵母が付いて発酵しアルコールになる。つまり、ワインは出来てしまうのである。故に、ぶどうの産地である地中海沿岸部では、ワインは自然から湧いてきた贈り物であった。それだけにワインは、自然を主導に育まれたものである。この地上にぶどうは約八千種以上あるとされるが、上質のワインが作れるのは五十種ほどのヴィティス・ヴィニフェラという種類のぶどうだけである。そして、このぶどうが育つのは北緯三〇度から北緯五〇度、南緯三〇度から南緯五〇度の二本のベルト上に乗っている。さらに、このぶどうは白亜質、粘板岩、砂利、砂、粘土といった痩せた土壌が適しているというから不思議である。それらの条件を満たしていると言っても、極上のワインのぶどう園の隣の土地では、最下級のワインしか作れないというジンクスがあり、自然のみぞ知るという面がある。

ワインは湧いてきたので、その古さの考察は不可能であるが、古代エジプト人もギリシア人もワイン作りには熱心であった。ギリシア人は、ワインを保存するのにアンフォラと呼ばれる粘土の容器を使ったが、このアンフォラは完全な密閉容器だったからワインは酸化せず、うまく熟成した。ローマ人もアンフォラを作ったが、多孔質容器だったからワインはすぐに駄目になってしまった。しかし、ローマ人はタールで内側を塗りつぶすことを発明して、やはり上質の熟成ワインを作る事に成功した。そして、ローマ人は、アンフォラにその年の執政官の名前のラベルをつけ年代物のワインを愛でた。紀元前一二一年のオビミアンワインは、オビミアスが執政官だった年のワインで、傑物中の傑物であった。一世紀後のシーザーの時代のオビミアンワインは、当時それを見た人達の驚きと感激がローマ文学に記されている。

さて、これ程の素晴らしいワインが作られていたにも関らず、その技術は中世に受け継がれないのである。中世ヨーロッパでは、ワインは透き間だらけの樽に入れられた為、ワインはじきに酸化してしまった。それでも、中世ヨーロッパではワインは水のごとく愛飲されたが、オビミアンワインのようにワインを密閉して熟成し、名酒を作る事など誰も考えようとしなかった。ワインの暗黒時代である。その夜明けは一八世紀になってからである。きっかけは一六八八年、イギリスの王位に就いたジェームス三世(オレンジ公)が、仇敵のフランスを困らせる為フランス産ワインの輸入を封じたことである。そして代替にポルトガルのポートワインだけは優遇したのである。ところが、フランスワインの美味しさから比べると、ポートワインは全く人気がなかった。

ここで初めて、美味しいワインを作るという思考が芽生えたのである。ポートワインは、リスボンかオポルトでイギリスに向かって船積みされるのだが、イギリスに着いたオポルトのポートワインは、ポルトガルでは香りも強く甘みも強く、リスボンのポートワインより優秀とされていたのに、甘みも香りも消えていたのである。そこで彼等が気付いたのは、甘みが強ければ早く発酵して、発酵過剰になるという事である。発酵を抑えなければならない…、その答えは容器の密閉にあった。そして生み出されたのが、ガラスビンにコルクの栓をして、ビンを横倒しにすれば、コルクはワインに浸されて膨張しているから密閉が完全になるという方法である。一七八〇年、長い長いワインの暗黒時代は終わったのである。ワインはビンの中で静かに熟成するようになった。アンフォラ以来、千五百年間一睡もさせてもらえなかったワインは、再び静かに熟成という眠りについたのである。


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