店主敬白・其ノ参



高校生の時、学校のボクシング部の主将をやっていた。ボクシングに興味があったわけではなかったのだが、やり出したらのめり込んでしまったのである。
ところで皆さんは、ボクシングの試合が始まる時、レフリーが何か注意しているのを知っているでしょうか。今はどう言っているのか知らないが、私達の時はだいたいこうであった。「パンツより上の体の前面をナックルで打ち合うように。バッティングに注意して、正々堂々と試合するように」と言う様な事を言う。ナックルで打つとは拳(こぶし)で打つという事で、バッティングとは頭突きは駄目だという事である。おもしろいのは、このレフリーが言っている事がボクシングのルールの全てなのである。まるで腕相撲と同じ位に簡単なルールである。ルールが簡単と言う事は内容も簡単である。だから入部して、半年で関東学生チャンピオンになった先輩もいた。この単純さがボクシングの魅力でもあるわけだが、スポーツといえども、ルールや道具が複雑になると、高度な技術と天性の素質を要求される。
最も、高度な技術と天性の素質を要求される職業は芸術家ではないだろうか。芸術家に要求されているものは無限である。それだけに、芸術家は生涯現役である。

昔、ある人に「大家(たいか)と名人の違い」を聞いた事がある。「大家と言われる人は、自己セールスが上手で有名になった人で、名人と言われる人は、亡くなってからかなりたって評価された芸術家で、芸の奥が深すぎてとても本人の生きている間に評価されきらないものだ」と聞いた。その大家になる話を裏付けるような話を知人の美術商に聞いた事がある。例えば陶芸家で言えば、どこの展示会にも必ず出品するタイプの人がいて、値段も手頃で買う人も多いので、多くの人の頭に名前が残るようにするタイプと、逆に有名会場だけで個展を開き、値段もとほうもなく高くつける。そうすると、見に来た人は先ず値段にびっくり、もちろん買わないけれどきっと有名な陶芸家だと思って名前を覚えておく。たいてい、どちらかの方法で名を売っていくと聞いた。

ところで、「料理は芸術である」と言う人がいる。「いや、格が違う」という人もいる。私に言わせれば、料理はかなり芸術である。格が違うということは否定したい。しかし、芸術は自分に素晴しいイメージが湧いてきた時、やれば良いものもあれば、コンサートのようにその日のために少しずつテンションというかコンディションを集中して行けば良いものもある。しかし、料理は全て、お客様次第。そして、最も残念な事は、料理は保存できないという事である。死んでから評価される等全くおよばず、一時間前に作った料理でさえ、実力は無いに等しい位に落ちてしまう。その辺が芸術と違うところだが、本当の料理人の歩む道というか、修業で求められる内容は芸術家とそう違いがないのではないか。

日本料理で言えば、今は白衣を着ている人は皆、板前さんと言われているが、昔は料理長として、板前の会でお披露目して、初めて板前と呼ばれたのである。関西では花板(はないた)等と呼ばれ、料理人の憧れの的だった。そして、板前になるには煮方(にかた)という、火を使う料理、味付けの管理をする職を二十年以上務めなければ板前にはなれなかった程である。煮方の最も大切な仕事に「出汁」をとる仕事がある。良い出汁を引くには三十年かかると言われていた位である。この煮方になるのにも、大変な修業があるのだ。昔の人は仕事を教えなかったから、仕事は盗まなければならなかった。ただ怒られるだけで、仕事に熟達するのである。今は、仕事は早く教えて早く覚えてもらう風潮になった。だから、一人前になるのも早くなってきている。しかし、内容は昔より、もっと食材も増え勉強量は増えている。

それでも、修業をしっかりやれば良い板前さんになれるかというと、やはり天性の才能がなければならない。そして、良い師匠につかなければならないし、良い職場で働かなければだめである。日本料理をやるには、どうしても本当の懐石料理を出す料理屋で、一定期間修業しなければならない。懐石料理は、日本料理の基本中の基本なので、それをこなした人でなければ日本料理は作れないのである。このような厳しい修業をしても料理人は、先に述べた名人にはなれないのである。料理人の宿命である。だから、世の料理長は、自分の腕がさめない内に大いに自分を売り込んで下さいね。



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