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土用干しを終えた梅干は、日の光でことさらに赤く染まり半年間の熟成を待つ。立秋が過ぎ残暑が去れば、味噌仕込みを開始する。この味噌も半年間の発酵を待つ。秋も深まり始めると、庭の風仕事がにぎやかになる。干し網に入れられた魚だの切干大根だの椎茸だのが、乾いた風にあおられて生き物のように舞い踊る。空はどこまでも突抜け、風は巡り巡って冬の匂いを運んで来る。庭にオナガが飛来し、鋭い威嚇の声をあげるとキムチや沢庵、いずしなど、冬の漬物作りの合図だ。一年で一番忙しい季節の到来。大根を干したり、漬物石を持ち上げたり、干物を狙うヒヨドリを竹箒で追っ払ったりして走り回るうちに年が明ける。食べ飽きた餅を干し、
毎年毎年、春夏秋冬の四季の中で、自然からの恩恵に与りながら、ささやかな手作りを行っている。そして、どうゆうわけか、これが私の仕事なのです。まるで遊んでいるみたいでしょ。ええ、そうなんです。遊んでいるのです。私の仕事は自然たちに遊んでもらう食作り。光や風、果てしない時間の流れ、環境に生息する微生物、小さな庭に自生する草木花、干物作りの目の仇の野鳥たち。このようなものを資源にして、糊口の生業の料理教室をやっている。私の自慢とプライドは資金が限りなくゼロに近いこと。自慢してどうなるものでもないけれど……。この料理教室の凄いところは、人間のなせる技は些細なきっかけ作りだけで、あとは自然にお任せするところ。梅干が円やかに美味しくなるのも、味噌が旨くなるのも、塩漬け野菜がふくよかな漬物になるのも、ぜんぶ自然と時間の流れなのです。人間のできることといえば、仕込みの時季を逃さないことくらい。そして、素材と塩を混ぜ合わせたり、干したり、漬けたりしておくだけです。仕込みの作業そのものは誰にでも出来る至って簡単なものです。しかし、この誰にでも出来る簡単なことを誰でもがやらなくなってしまった。 いつの頃からか、梅干が梅干でなくなり、漬け物が漬け物ではなくなった。味噌にしろ魚の干物にしろ、自分で手作りしたものと市販品を比べてみれば、その味の違いは歴然と分かる。梅干だの味噌だの漬け物などの塩味のものを私は「ご飯の周り」と呼んでいる。目を見張るご馳走ではないけれど、いつも縁の下の力持ちのように側にいてくれる食べ物。ご飯の周りが本物であれば、豪勢なご馳走がなくても、ご飯を美味しくパクパクいただくことが出来るのです。何よりも本当はこんな脇役の食べ物が、一番私達の心身を支え、育んでくれていると思っている。ねえ、ご飯の周り、大切にしようよ。
でも、何がお塩だと思っているかが問題です。私は専売法が廃止されると同時に海の味がする「粟国の塩」に飛びつきました。梅干や漬物の水の上がりが違う。出来上がりの円やかさが違う。発酵食作りは腐敗と無縁になった。以来、私の生活と仕事は本物の塩と切っては切れない仲になりました。美味しい。これって幸せだと思う。 今後一年間、自然たちの料理仕事と本物の塩の仲良し関係を日常の実践料理を基軸に、ゆっくりと語り続けたいと願っています。料理仕事とは切り離すことの出来ない本物の塩、そしてニガリの魅力が、どうぞあなたに伝わりますように。 |
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(イラスト・ますだとみえ)
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