店主敬白・其ノ九


私共のレストランで、料理長が代わる事になった。たいていは、社内からか、私の知っている人を料理長にするのだが、今回は都合で、紹介で来た。そのような事は時々あるのだが、久しぶりであった。どのような料理長であるか、紹介者は、私共のニーズがどの位のものかを完全にはわかっていないから、やはり採用についてはこちら任せである。

今回で三人目の料理長に会った。先ずは、どのようなチームを作って来られるのかを聞く。最低でも、二番手、三番手位は連れてきてもらわなくては、お互いにしんどい。そして、履歴書を見て、どのような店で修業したかを見る。そして、誰に習ったかを聞く。特に煮方をした時などの師匠は大切である。やはり、基本はきちんと勉強していてもらってなければならない。こちらで教えるものではないのだから。

今回の場合、私共の知り合いが師匠だったから、その時の様子は聞けた。なかなか重宝していた様だった。履歴書で気になったのは、料理長になってからの職歴である。かなり長い間、居酒屋のチェーン店に勤めているのである。二番手、三番手はそこで育てたのかと聞くとそうだと言う。これはちょっと荷が重いなと思った。

とにかく採用する事になった。最初の一週間で、前任者との引継ぎをしてもらった。引継ぎが終わると先ずは、適当なものを作ってもらって、彼の舌の感覚を見てみたい。私が一番恐れるのは、味弱というか、味の感覚が鈍い人である。私の経験では、だいたい五人に一人はいるのではないか。私もそうだが、世の中、近眼の人が沢山いるのだから、眼ではなく舌が近眼の人が多くいるのは不思議な事ではない。

ただ、近眼の人がパイロットになれないように、食の世界で味覚が鈍ければトップにはできない。まして、舌用の眼鏡もないのだから。そして、困るのは、誰も自分の味覚度を知らないという事である。

これは、余談だが、私は昔、色覚に障害のある料理長を使っていた事があったが、彼は立派な料理を作っていた。色彩についても、経験によってカバーしているのか、おかしい事はまるでなかった。ただ味は、目で見えないから、私なりに判断しなければならない。

さて、味見の続きだが、味見初日の料理はどれも、しょっぱくて甘いのである。作り直してもらうが大差ない。色々注意して、二日目にやはり味見をしてみたが、直っていない。三日目も同じである。彼の師匠は、味はしっかりしていると言っていたのだが、これはどういう事だろうと恐ろしさを感じた程である。

もう一度、彼の履歴書を見直してみて、ひょっとすると居酒屋が長かったからかなと思い、「料理屋で、勉強してた頃の味を思いだして欲しい」と言って、また作ってもらったら、すっきりした味に直っているのである。これならいけると思い、次の料理はこういう味にしてくれ等と次々に作ってもらうと、今度はどんどん直ってくるのである。十日程すると、かなり良い線にいっているのだが、まだ、ひょっこりと、前の味が出てくる。彼に聞くと「若い職人は、居酒屋しか知らないから教育が大変だ」と言う。それでも若い人は、覚えも早い。どんどん良くなっている。

料理の盛付けも同じである。全く居酒屋的盛付けである。私共は、懐石料理的な盛付けをさせている。さらには、一品の価値観を高める為の、デザインを重視している。これを変えなければならない。私共の他の店で料理を作らせ、それを見させて、当面は同じ様に盛付ける事にしてもらう。それも、だんだん良くなってきた。もうあとは微調整である。が、三週間、気を張りながら、同じ店で同じ様な料理を食べてた私が仕事とはいいながら、何も食べる気がしなくなってしまった。

過去にも何回か経験している事だが、食べなくてはならない辛さと言うのは本当にきついものがある。以前、同じ献立の朝食、そして、夜は、やはり同じ献立の懐石料理を三日続けて食べて、料理の修正をした事があったのだが、その時も、四日目は何ものどに通らず逃げてしまったが、今回も、人にはわかってもらえないこの辛さの為、一週間位は休ませてもらうつもりだ。

それでも、新料理長に「来月は、この店独特の料理の開発に進もう」と言えるようになったし、どんな料理を考えようかなと、私自身の楽しみも増えた。

ちなみに、料理屋やレストランの料理長は、さぞや、いつも美味しい物を食べていると思うでしょうが、彼らは本当に自分の店の料理を食べたがらない。私が、料理長達に「味というのは、一皿全て食べてみなければわかるはずがない。今ここで一緒に一皿食べよう」と言うと、皆、泣きそうな顔になる。毎日作って、毎日目で食べている。そして、ちょこちょこ味見をしていると、一皿食べるのは相当辛い仕事になってしまうのですよ。そして、真剣に仕事をしていれば、どんどん辛くなる。この辛さって、経験した人でなければ、全く通じない話ですよね。



Copyright (C) 2002-2005 idea.co. All rights reserved.