鶯の妙なる鳴き声が聞こえ、衣を一枚脱ぐようになると、南の方から桜前線が北上してくる。と、テレビでは待ってましたとばかり、お花見の風景を流す。が、最近は、悲しいかな花見風情というものが、いささか希薄になって来たような気がしてならない。
我が家の近くにも桜並木の見事な公園があり、週末ともなると早朝から場所取り合戦が始まる。いやはや、前日からビニールの紐を張り巡らしたり、ブルーのシートを敷き詰めたりして、散歩がてらの花見気分が台なしにされてしまう。また、花見のやり方も、花を愛でるというのではなく、花を口実に酒をいたずらに煽るだけで、情緒を全く感じられないのが残念だ。
中には、カラオケセットを持ち込み、他人への迷惑も顧みずに騒音をまき散らす。まだ十代と思しき子供達が一気飲みを行なっていても、誰一人として注意する大人はいない。不愉快なのは、食べたり飲んだりすることは一向に構わないのだが、その後始末が為されていない。大半の人達は、ビニールシートも、ファーストフーズで買って来たのであろう鶏の空揚げの骨も、包み紙の類いも、全てをただ丸めて放置したまま帰ってしまう。ひどいのは、バーベキューのセットや安売り店で買って来たものなのだろうが、鍋や皿までも使ったまま捨てて行ってしまうのだ。
だから、早朝の公園の花の下の汚さは、目を覆うばかりである。喜んでいるのは、東京名物のカラスだけではなかろうか。花見という日本古来の雅びな風習は、一体どこへ消えてしまったのであろうか。少なくとも、僕の子供の頃までは、三枚折になった筵(むしろ)を携えて桜の下に行き、風呂敷に包んだ弁当を広げ、ゆったりとした気分で花を見て、最後には跡形もなく綺麗に片付けて帰ったものである。
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