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鶯の妙なる鳴き声が聞こえ、衣を一枚脱ぐようになると、南の方から桜前線が北上してくる。と、テレビでは待ってましたとばかり、お花見の風景を流す。が、最近は、悲しいかな花見風情というものが、いささか希薄になって来たような気がしてならない。

我が家の近くにも桜並木の見事な公園があり、週末ともなると早朝から場所取り合戦が始まる。いやはや、前日からビニールの紐を張り巡らしたり、ブルーのシートを敷き詰めたりして、散歩がてらの花見気分が台なしにされてしまう。また、花見のやり方も、花を愛でるというのではなく、花を口実に酒をいたずらに煽るだけで、情緒を全く感じられないのが残念だ。

中には、カラオケセットを持ち込み、他人への迷惑も顧みずに騒音をまき散らす。まだ十代と思しき子供達が一気飲みを行なっていても、誰一人として注意する大人はいない。不愉快なのは、食べたり飲んだりすることは一向に構わないのだが、その後始末が為されていない。大半の人達は、ビニールシートも、ファーストフーズで買って来たのであろう鶏の空揚げの骨も、包み紙の類いも、全てをただ丸めて放置したまま帰ってしまう。ひどいのは、バーベキューのセットや安売り店で買って来たものなのだろうが、鍋や皿までも使ったまま捨てて行ってしまうのだ。

だから、早朝の公園の花の下の汚さは、目を覆うばかりである。喜んでいるのは、東京名物のカラスだけではなかろうか。花見という日本古来の雅びな風習は、一体どこへ消えてしまったのであろうか。少なくとも、僕の子供の頃までは、三枚折になった筵(むしろ)を携えて桜の下に行き、風呂敷に包んだ弁当を広げ、ゆったりとした気分で花を見て、最後には跡形もなく綺麗に片付けて帰ったものである。


Kubota Tamami


弁当だって、祖母が陣頭指揮を取り、重箱にわくわくするような御馳走を詰め、本当に行儀よく食べていた。昭和の二十年、三十年代は今ほどものが豊かではなかったからだろう、すべてのものを大切にしていた。ところが、昨今は使い捨ての時代になった。途端に、ものを粗末にするようになったのが悲しい。挙げ句の果ては、自然環境でさえ粗末にしているのではあるまいか。

弁当といえば、最近は幼稚園の先生がコンビニで弁当を買い、それを自分の弁当箱に詰め替える、という風潮があるそうだ。園児に弁当持参を義務付けている手前、コンビニ弁当では示しがつかないからだそうだ。親は親で、スーパーに売っている弁当のおかずの冷凍食品を買い、電子レンジでチンをして弁当箱に詰めて子供に持たせるのだとか。だから、時によっては弁当の中身が同じということが多々あるそうだ。

人間の味覚というのは、一説によると幼児期の頃に形成されるのだそうである。だとすれば、二十年先の日本人の味覚は、一体どうなってしまうものなのであろうか。僕の考えでは、弁当のおかずはそんなに贅沢をする必要はないと思う。どんな料理でも、母親が心を込めて作ったものであれば、その心がいつか子供の心の中に映り込むのである。愛とは、そういうものではなかっただろうか。

花見の弁当とて、蔑ろには出来ないと思う。例えば、十人で花見をするのであれば、十人が一品ずつ料理を持ち寄るとかなり豪華な宴会になる。ただし、男も料理を作らねばならぬ。例え、下手でもだ。

こうした積み重ねが、日本の食文化を高揚させるものであると、僕は信じる。デパ地下で売られている花見弁当や会席弁当もよろしい。が、握り飯一つでも自分で握った弁当の方が、明らかに心が豊かになって、優雅な花見が出来ると僕は考える。


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