店主敬白・其ノ四拾壱








ずいぶんと古い話だが、学生の頃にダイビングに凝っていた時代がある。ある時、友人と二人で伊豆諸島の式根島にダイビングに行った時のことである。三泊の予定で行ったのだが、台風の影響で十日も式根島に閉じ込められた。それでも岩陰や湾の中ではダイビングが出来たので、台風といえども充分に楽しめた。宿は地元の漁師の家の民宿である。漁師も台風で漁ができないので、彼の焼酎タイムはいつも付き合った。

ある時、その漁師に「くさやの干物」のおいしい焼き方を教えて欲しいと頼んだら、「あとで風呂を焚くからその時に教える」と言う。風呂は確か五右衛門風呂だったと思うが、野外の焚口から薪で焚くのである。薪に火が着いて火力が一番強くなったのを見計らって、彼はくさや三枚をかまどの中に放りこんだ。二十秒位して、くさやが少しねじれてきたら、長い鉄挟みでくさやを取り出して「はい、できあがり」と言う。その熱々のくさやを食べてみてびっくり。くさやがこれ程おいしい食べ物とは全く知らなかった。食べ終わったら、また人数分(つまり三枚)のくさやを放り込んで熱々のを食べる。そして焼酎である。この組み合わせがなんともおいしいのである。それからは、毎日、風呂の焚口で我々の焼酎タイムは始まる。もちろんくさやは食べ放題である。

風呂のかまどの中の高い温度がくさやをこうもおいしい味にしているわけで、もしプロの調理場で同じ焼き方ができるなら、くさやは世界三大珍味に入れてもおかしくないだろう。
その後、強火でくさやを焼いた事はあったが、風呂のかまどの味とは全く別物の味しか出せなかった。

ところで、日本料理の料理人というのは大方が干物を焼くのが下手である。割烹では干物を焼くという事がほとんどないからである。干物の焼き方はひたすら強火である。スルメを強火の遠火で焼いてもおいしくないのと同じで強火で焼くのがコツであるがプロでも躊躇する。

くさやは風呂のかまどという道具が無いので上手く焼けないのだが、それではすばらしい料理を作るプロの調理場と家庭の台所とではどれだけの道具の違いがあるのだろうか。日本料理で考えてみた。さぞ道具もかけ離れていると思われるでしょうがそうでもないのである。

まず包丁であるが、これはかなり隔たりがある。魚の下ろし用に出刃、子出刃、相出刃、叩き出刃等がある。刺身用に柳、蛸引き、河豚引きなどがある。野菜用に薄刃、むきもの薄刃、面取り、皮むき等。その他鱧切り、寿司切り、切り付け、蟹すき等々の包丁がある。そして洋包丁も便利なので最近は必ず用意している。

次に大きな違いがあるのが鍋である。達磨鍋とかやっとこ鍋というのだが、プロの職場の鍋には取手や柄が無いのである。手も足も無いから達磨というのだが、忙しい店ではこの鍋がなければやっていけない。大きさも多種あるが、柄がないのでいくらでも重ねられ場所をとらない。また、プロの調理場のガスレンジは最低でも七灯から十灯位のコンロがあり、これが全て稼動しているので柄があったらじゃまでしょうがない。それに柄が焦げてしまう事だってある。プロの料理人は前掛けの帯に必ずやっとこを差していて、これで鍋をつかむのである。慣れてしまえば、やっとこの方がよほど使い良いようである。
その次は裏漉しになるか。プロは裏漉しを裏からも表からも使用し、代用のない道具でよく使う。

その他、何があるだろう。まず「バラ引き」。これは魚のウロコを取る便利な道具である。「貝割り」は名前の通り、貝を開くのに使う。「目打ち」は穴子や鱧、鰻を裂く時に魚を止める釘のような道具である。「骨抜き」は刺抜きの大型のもので魚の小骨を抜く。「金箸」は盛り付け箸の先が鋭利な金属製になっていて、刺身を美しく盛るのには絶対必要である。「流し缶」は流し物を作る時に流し入れる器。「打ち抜き」は魚そうめん等を作る道具。「天突き」はところてんを押し出す道具で滝川豆腐等を突く。「金匙」は家庭では「お玉」等と呼ぶがプロが使うのは八斥という量(一四四cc)で、吸い物一杯分の量の目安になる。その他「もっそう」「煮ざる」「くり抜き」等々がある。色々書き出してみたが、家庭でも工夫すれば代用できる道具が必ずあるはずである。プロの道具はやはり修練とセンスである。


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