店主敬白・其ノ四拾弐







少し前、北海道で牛肉の挽き肉の偽装事件がマスコミを騒がせた。テレビのワイドショーで、偽装のものと同じ様に作った挽き肉と本物の挽き肉を炒めて試食していたが、試食した人達は皆、どちらが本物か判らないと言っていた。

私は若い頃より食材の仕入れをしていたから、食材関係の人達との交流も多かった。その頃は偽装と言う言葉は全く聞かなかった。しかし、偽装の様な事はたくさんあったようだ。当時は偽装というよりは発明という感覚で話を聞いたものだ。牛肉のもも等の硬い肉をジャガード(?) というカッターの刃が無数に付いている機械で筋肉の繊維を切って柔らかくして、それにやはり無数に針が出ている機械でラードを注射すれば牛ロース肉になってしまうとか、ハラミの肉に卵白の粉末を降り掛けて張り付けるとヒレ肉になる等々。私はそんな技術があるのかと感心したものである。私が仕入れをしていたのは高級食材だったからその様な製品とは無縁で現物を見た事は無いが、話としてはおもしろかった。そのうち、人工いくらが流通し始めたとか、ししゃもの卵を型に入れて数の子を作るとか聞くに及んでは、そういった技術の発達にはある種の敬意のようなものを感じた。当時は、高級な食材は庶民には全く無縁なものであったから、少しでもそれに近い食材を安く提供しようと研究に励んでいる人達がいるのだと解釈していた。昔はそういう時代があった。今は飽食の時代である。偽装は許されない。昔でも、許されない偽装を聞いた事がある。一キロの豚肉が一・二キロのハムになると言われた時はびっくりした。ハムが汗をかく事など有り得ないのに汗をかく。それは水を注入して重量を増やしているのだといわれた。確かに汗をかくハムを見た事があったのでいやな話だと思ったものだ。

その当時、我々の買い付ける高級食材にも偽装の様なものはあった。例えば、昔の高級野菜はほとんど木箱に入っていて、我々買い入れ人はその一〜二センチの隙間から、中の商品を見定めるのだが、その隙間だけ形の良い野菜を並べてあり、中は形の悪い物や小さい物が詰まっている等はざらにあって、私も引っ掛かってしまって、後で料理長に投げつけられ、「今から替えて来い」と怒鳴られた事等よくあった。替えに行って、卸しの仲買人に文句を言っても相手にされない。つまり、引っ掛かった私が未熟で勉強が足りない訳で、悪いのは私なのだという世界であった。駿河湾のすずきだと言われて買ってきて、料理長に「東京湾の油臭いすずきなんか使えるか。すぐ取り替えて来い。いつになったら魚のツラを覚えるんだ」と怒鳴られた等も多々あった。逆の事もある。築地の市場は遅くなると現金買いが有利だ。現金だから店を選ばないで売れ残りの魚を安く買うのである。野〆めの姿の良い鯛があったので値段交渉をしたらそこそこの値段になったので買って帰ったら、料理長が魚を卸しながら「これは野〆めではないよ。活け〆めだよ。身が活きている。触ってみな。よくこの値段で買えたな」と誉められた等という事もある。そんな訳で食材の「ツラ」を覚えたくて必死だったから仲買の親父連中にはよく教わった。魚でも野菜でも「ここがこういう色をして、こういう姿で」等々、言葉で説明できる範囲はたかがしれている。だから、一生懸命教えを請うと、水槽の魚を網ですくって「これは良い」「これはたいしたものでない」等と姿を見せてくれるだけである。果物も同じで、メロンに例えれば、ネットが均一とか、ネットの目が詰まっているとか言われても、それが素人に分かる程の差があったら品種が違う位の大差だ。「これは良い」「これは凄い」等と教えられ、場数を踏んで、「ツラ」が見えて来ないと何も分からないのと同じである。だから、彼等の教え方が一番理に適っている。言葉ではなく食材の「ツラ」を覚える以外に見分ける方法はない。だんだん分かってくると鯛なら鯛の、メロンならメロンの美しさが見えてくるのである。今でも、調理場で良い魚を見掛けると「この○○は良いね」等と言ってしまう。昔培った習性である。以前、神奈川県の三崎港にマグロの買い付けによく行ったが、時間が無くて電話で注文すると必ず二段階、三段階も下のマグロを送ってくる。売る側もプロなら買う側もプロの世界であり、自分で見なければ買う資格は無いのである。

今は、電話の注文は当たり前の時代である。買う側に素人もプロもない、全て消費者である。売る側も買い手を見て売るようなごまかし事はやらない。しかし、料理のプロであるならば、仕入れのプロにもなるべきである。緊張の糸が緩むと、結果は料理の出来映えに現れる。


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