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まだ収穫には至ってはいないが、体験農場に植えた大根は惚れ惚れするような出来栄だ。葉は見事に茎を伸ばし、五センチばかり地上に顔を出している肝心の根の部分も、八百屋さんに売られているものと比べ遜色はないようである。
現役のお百姓さん(失礼! 本来は先生と呼ぶべきなのだが…)の直接の指導の下に事を運ぶと、こうも違うものなのだろうか。今までは、土造りといっても、ただ単に掘りくり返し堆肥を施すだけであった。これは、どの作物に対しても全く同じ。このことが、大きな間違いであったのだ。

改めて思ったことだが、農作業というのは教育と酷似しているのである。僕に与えられた農地面積は、十坪プラスアルファー。小さいながらも、この面積に年間を通して四十品目を超える多種多様の作物を育てる。例にとれば、トマト、キュウリ、ナス、白菜、ネギ、トウモロコシ、ジャガ芋、レタス、春菊、里芋、大根等々…。

このそれぞれの野菜達は、同じ性質を持ち合わせているものもあるが、それぞれの特性は微妙に異なる。酸性土壌を嫌うものアルカリ土壌を嫌うもの、はたまた湿度を好むもの嫌うもの。個々が微妙に異なるのである。このことを確実に把握し、せまい畑の中で作物に合わせて変化をつけて育てる。当然の事ながら、作物には好む季節があり、やみくもに種を蒔いても発芽はしても育たない。また、ナスやトマトを植えた後にはホウレン草や小松菜のような葉ものがよいとか、この作物は根瘤病があったから石灰を施すとかの、適切な判断が必要となる。

Kubota Tamami


簡単にこじつける訳ではないが、この辺りが小学校の低学年の教育に当てはまるような気がするのだ。狭い教室の中で学ぶ子供は、皆同じように見えてもそれぞれに個性というものがある。それを、一つのパターンに当てはめて指導してしまうと、後々とんでもないことが生じるだろう。今の教育方針には、こうした問題がよく見られる。一つの個性を伸ばすより、全体の平均点を上げればよいという、ことなかれ教育がまかり通っているような気がしてならない。

愚にもつかぬことはさておき、大根に話を戻そう。今育てているのは、最近どこにでもある青首大根だが、十本ばかりあるだろうか。それに、プラスアルファーの畑に自由に植えた練馬大根が十株ばかり。当初は、こんな少しだけ植えて何になるのだろうと考えていたが、これは大きな考え違い。先生が大根を抜きなさい、と仰ったら一斉に抜かねばならぬのだ。女房殿との二人だけの核家族。一体どうやって十本の大根を食べればよいのだろう。ふろふき大根だって、一本もあれば充分にこと足りる。切り干し大根にする手もあるが、長男が筑波の奥に家を建て、そこには数百本の大根が植えられていて、切り干しを作って送りますと宣言されている。沢庵は沢庵で、練馬大根が沢庵になりたがってすくすくと育っている。となると、友人達にお裾分けをしてじっくりと大根の味を確かめて頂こう。

一つだけ是非食べたい料理がある。千切り大根をたっぷりと土鍋に入れて、その上にきびなごを乗せて味わう、五島列島で覚えたきびなご鍋である。大根の他に昆布出汁と日本酒を用いるが、千切りにした大根の甘いエキスがこの鍋の味を引き立てる。後は、新鮮なきびなごがあればよい。きびなごは、さっと火を通すと面白いように身と骨が分かれるから食べ易い。味付けは、塩味でもよいし、淡口醤油で味を整えるもよし。問題は、大根を抜く日に、きびなごを九州から取り寄せることである。新鮮なきびなごと、抜きたての大根があればこそ、極上のきびなご鍋の成立なのである。



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