店主敬白・其ノ参拾四







私共の割烹の二番手の料理人が独立して自分の店を出すということで退職した。彼は主に俎板を仕切っていたが、下の料理人がまだ育っていないという事で料理長がまた俎板に立つ事になった。包丁仕事というものは、しばらくやっていないと腕が鈍るものだから、私も様子を見に調理場へ行って、からかい半分に「花板、調子はどうだね」と聞いたら、「いや、私が板をやるようになって刺身がおいしくなったと言われているんですよ」と言いながら黙々と刺身を引いていた。私もその仕事を見ていたが、この刺身だったらそう言われるかもしれないと思った。刺身の切り口が滑らかで光沢がありおいしそうなのだ。切り方一つで味がかわるのかと思われるかもしれないが、現実の話である。日本料理の厳しい一面である。

すこし前の話であるが、私がある料理長に「日本料理は他の料理に比べておいしくないのだから」と言ったら、彼はえっ! という顔をして「どういう事ですか」と聞き返してきた。私は、例えばラーメンのスープは旨い。鶏ガラや豚骨、香味野菜、こがし油や豚の背脂、さらに大量の化学調味料等でこれでもかという程煮込んで濃厚なスープを取って味付けも濃い目にしてある。一口飲んでみれば強烈な自己アピールをしてくる味だ。こんなスープに比べれば、日本料理のお吸物なんか唯の白湯のようなものである。昆布とかつお節で出汁をとるといっても、かつお節を入れる時は火をおとしてしまう。味付けも微量な調味料だけで、自己アピールなんか全くしてこない。絶妙というか完璧なバランスを提供しているだけである。だから日本料理では完璧な味しかおいしくないと言いたかったのだ、と説明した。

日本料理は、材料を色々使っておいしい濃厚なスープやソースを作って、素材以上の旨い味にしてはいけないという決まり事がある。素材の持ち味をいかに引き出すかが料理人の仕事であるから、「旨くする」料理ではないのだ。つまり、日本料理はおいしい素材の味を最高レベルまで「引き出してやる」という、単純でありながら奥が深い料理なのである。

さらに言うと、日本料理には品位がなければいけない。よく品位とは何かと考えてしまう。イメージとしてはよくわかっているつもりだが、言葉で言おうとするとかなり難しい。同じ料理であっても包丁の入れ方一つ、盛付の盛り方だけで品位がまるで違ってくる。品位というのは料理人のセンスひとつである。生まれながら持ち合わせているのか、育った環境なのか、同じ師匠に育てられても品位の個人差はかなり大きいものである。本人が何かを悟った時に花開く時はあるが、いくら注意しても直るものでもない。例えば、日本料理には見る方向があって、必ず正面から見るものとしている。皿の真中に料理を盛ると言っても数学的な中央ではない。見る方向からの真中である。これも料理人によってかなり位置が違うもので、まして品位となると説明するのは本当に難しい。この難しい品位というものを保つ為に日本料理には幾つかの決め事がある。

例えば刺身のつまを例にとって説明すると、つまというのは「端」と書き、へりとかはしという意味があるから軽視されている様に思われるが、これがなければ刺身にはならない程重要なものだ。一般につまと言われているものは「権(けん)」、「妻(つま)」、「掻敷(かいしき)」の三つに分類され、薬味は別である。古くは「交(つま)」と書き、現在の「権」の意味があったが今回は今風に説明してみる。

「権」は野菜を桂むきにして千切りや小口切りにして刺身を立てて盛る為の下敷である。大根、胡瓜、独活、茗荷、南瓜、人参、海草等、食べられるものを用いる。

「妻」は刺身を夫に見立てて、妻として刺身を派手やかに見せる役目や季節を表す。刺身の上に上置きしたり、添え置きする。しその花、蓼、防風、しその芽、柚子の花、ざくろの実等々、こちらも食べられるものを用いる。

「掻敷」は昔、木の葉を器にして使用した事に由来して、刺身の下に敷く蓮の葉や笹の葉、葉蘭等を指して言う事もあるが、料理に景色を添えるものと解釈されている。刺身に紅葉や南天の葉を飾ったり、枝つきの梅や桜の花を添えたり、あるいは青竹の器を使ったり、柑橘類で釜を作ったりするのも掻敷である。刺身に風情を出す為のもので、こちらは食べる事を目的にしていない。

この様に三種類のつまの決め事を守っていれば、品位のある刺身ができるはずだが、現実にはそうはいかない。やはり料理人のセンスによるのだ。

よくよく考えると、センスを磨くには良い作品をたくさん見る以外に方法がないと思っている。井の中の蛙になる事が一番怖い世界なのだ。


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