60





大阪に上野修三さんという、料理の達人が居られる。よく家庭画報やあまから手帳という関西の料理雑誌の中で数多の料理を披露されているので、氏の存在を識られている方は多いと思う。長きに渡り法善寺横町で「浪速割烹喜(七七七)川」を開かれ、我々に純粋な浪速料理を淡々とお教え下さった。その後法善寺の店は息子さんに託され、御自身は天王寺の天神坂に「天神坂上野」を開かれた。

店内は、六、七名の方が座れるカウンターだけで、昼の十二時と夕方六時から、用意ドンスタイルで食事が始まるという、料理人と食べる側が一体となり、浪速の旬の食材を味わうという趣向のお店であった。僕は、この上野さんのお店に年に一度か二年に一度伺い、真の浪速の食材を活かした料理を堪能させて頂いた。料理を味わっている目の前で、上野さんが包丁を持たれているのだから、何を調理されているのか手に取るように判る。おまけに、達人の丁寧なレクチャーと事前に個々に渡される墨痕鮮やかに認められたその日の献立(膳譜)で、今何を用意されているかが理解出来る。ということで、正直なところあまり日本料理に興味がなかった僕であるが、上野さんの料理に出会ってからは目が覚めたというか、四季折々の食材を活かした日本料理を味わうべきであると真摯に思うようになったと言ってよいだろう。

が、その上野さん、突然に店を閉められた。何も知らぬ僕は、上野さんお体の調子が悪いのかなー、と、のほほんと考えていた。しかし、二年くらいたった後、二、三日限定でまた法善寺のお店の二階にて包丁を振るわれるというお知らせを頂いた。スタイルは、天神坂のお店と同じである。ただ、以前と異なる点は、野菜類の殆どのものは生産者の所に足を運ばれ、日本古来の品種もしくは外来種でも、日本に持ち込まれた当時の品種を農家の方と再現されて居られるのである。例えば、天王寺蕪(かぶら)という古典的な品種の蕪が浪速にはあったそうなのだが、天王寺界隈は都会化しもう畑などはない。蕪そのものも改良種が出回り、昔の味とはほど遠い。こうした食材が、数限り無くあると上野さんは嘆かれる。

Kubota Tamami

吹田慈姑(くわい、河内一寸(一寸豆)、板持海老芋、鳥飼茄子、泉州玉葱、大阪水菜等々…。かつて浪速の料理に当たり前に用いられていた食材に目を向けられ、もう一度本来の大阪の味を取り戻そうと決心され、その労の為店を閉じられたのであった。現在、日本には食材を求めて生産者の近くで店を構えたり、有機農法にこだわる料理人は多々居られ、僕も注目はしている。時を同じくして、日本にもスローフードとかロハスなどという言葉が輸入された。だが、その実態は殆ど言葉から来るムードだけで、大手の企業の格好の餌食となってしまった感がある。k、河内一寸(一寸豆)、板持海老芋、鳥飼茄子、泉州玉葱、大阪水菜等々…。かつて浪速の料理に当たり前に用いられていた食材に目を向けられ、もう一度本来の大阪の味を取り戻そうと決心され、その労の為店を閉じられたのであった。現在、日本には食材を求めて生産者の近くで店を構えたり、有機農法にこだわる料理人は多々居られ、僕も注目はしている。時を同じくして、日本にもスローフードとかロハスなどという言葉が輸入された。だが、その実態は殆ど言葉から来るムードだけで、大手の企業の格好の餌食となってしまった感がある。

勿論、そうした動きに賛同して真面目に生産をしておられる方々も少なくはない。残念なことに、日本人の性格は熱し易く冷め易いという欠点もある。一体、スローフードという言葉はどこへ消えてしまったものであろうか。

僕も、あと少しでリタイアーする覚悟である。新天地に移り住み、畑を耕し自前の野菜である程度の食は賄おうと考えている。そして、年に一度くらいは自分自身へのご褒美として大阪ヘ行き、上野さんの料理を味わいたいのである。ただ、上野さんの食事会は、人数が限られているしどんなにコネがあっても席は確保出来ない。有名アーチストのコンサートのチケットを取るより難しいかも知れない。後は、上野さんの意志を受け継いだ料理人が育つのを、心を長くして待つのみである。



Copyright (C) 2002-2007 idea.co. All rights reserved.