店主敬白・其ノ参拾五







私共の割烹では、料理を一品出して食べ終わったら次の一品をお出しするという、喰い切り形式でお出ししている。時たま、お客様から「いっぺんに出せ。手が足りないのか」等とお叱りを受ける時がある。

しかし、実は一品ずつ出す方がよっぽど手間がかかっている。なぜなら、お客様の予約されている時間もまちまちであるし、全員揃うにも時間がかかったり、少し話をしてから食事にしてくれとか、すぐに出してくれ等、食事のスタートがお客様によって全て違ってくるし、また、お座敷は個室状態だから食事の進み具合も各座敷まちまちだからである。

一例として、会席料理を順番に並べてみると、先付、前菜、吸物、刺身、焼物、蒸物、凌ぎ、煮物、強肴、揚物、八寸、酢物、止め椀、食事、香の物、水菓子、甘味等となる。これで止め椀までで十三品になる。私共では食事、香の物、水菓子、甘味は数えないで少なくとも九品はお出ししているから、これだけの料理を各座敷でスタートもまちまち、進み具合も違う中、「作りたて」の状態で出すというのは結構手間のかかるもので、調理場の中は目の回る程の忙しさになる。

なぜこの様に面倒くさい形式ができたのだろうと考えさせられる。昔から格式のあった本膳料理も、お茶会で供される懐石料理も膳で出されておかずが並ぶ。割烹で出される会席料理も本膳料理や懐石料理の流れに乗っていたから、やはり同様に出されていた。しかし、本膳料理も懐石料理も料理は「ご飯を食べるおかず」であったのに対し、割烹の料理は「お酒の肴」という位置にあり、お酒が主で食事の時間も長くなる。料理人が一番に気にするのは熱い物は熱いうちに、冷たい物は冷たい内に食べて欲しいという事である。もう一つは、あっちの料理こっちの料理をつまんで口の中で味がごちゃごちゃになってしまうということである。

私が思うには、喰い切り形式の料理の出現はそういった料理人の切なる願い、あるいはプライドから出来たのではないだろうか。「先付」は料理人の名刺のような物であり、先ずこの小さな料理で私の味を感じて下さい。次は「前菜」で料理の幅の広さを、さらに「刺身」で腕の良さを知ってもらいたいと思う。一品一品を客に「結構でございます」と言わせたいという、料理人のプライドではないのだろうか。

また、献立というのは音楽の楽譜のように、全体で一つの曲であるように全体で一つの料理と見るべきで、その中の一品の料理が楽譜の一小節であり、一品の料理の中に音符となる料理と添え料理が配置されている。私は喰い切り形式が会席料理を堪能できる一番の方法ではないかと思う。

ところで献立は楽譜のようにと書いたが、献立というのは思ったように料理を表してはいない。私も毎日のように献立を見せられるが、どういう料理を出して、つけ合わせは何か位はわかるけれど、出し方というのはわからないものだ。どんなに腕の良い料理でも人の書いた献立でその料理がわかる人はいない。献立というのはその位不親切なもので、実際に料理を見なければわからないのが現実である。だから、献立を見ながら料理を食べるというのが会席料理を食べる良い方法だ。料理人によってはとても風流な言い回しをしてくるからなかなかおもしろいものである。

先日も「茶香鰆西京焼」となっていて、茶の香をどうつけるのかと思っていたら、小さな空土瓶によく焼いた那智石を入れ、それに茶葉をふりかけて煙を土瓶の口から出させ、蓋のかわりに薄い杉板を乗せてその上に西京焼を盛り付けて出してきた。茶の良い香りと焼石の熱でほくほくとした鰆が食べられるというわけだ。なかなかおもしろい仕事だった。

喰い切り形式の料理を食していると、料理の一品が変わるたびに食事の場面が変わってくるように錯覚する時がある。最近の良い仕事というのはその位迫力がある。私はよく喰い切り形式の料理を全部作ってもらって、それを順番に並べて全体の流れを見る事がある。起承転結がどうなっているのか。さりげなく見せる料理と「どうだ」と見せ付ける料理。皿の形の変化の仕方等が良く見てとれる。それを写真に撮ってみると、さらに気がつくところがある。時々、そういう写真を出して見てみるのも良い勉強になる。

昔はその土地で出来た産物をその土地の作り方で食していた。これは「土産土法」という今でも大切にしなければならないことだが、喰い切り形式の料理のふるさとは割烹である。だから、これからも割烹が大切に育てなければならない料理なのだ。


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