店主敬白・其ノ参拾七







もうかなり昔の事だが割烹を造ろうと思い立った。以前、割烹の責任者をした事もあったのでいつか割烹を造りたいという夢も持っていたし、料理人を育てる為にもやるべきだと思い決断した。いざ決断してしまうと色々な構想が浮かび、その為に勉強する事しきりであった。

設計を依頼したのは日本でも十指に入る大手の設計事務所であった。私は設計に関してはかなり口を挟む方なので、実際に設計が始まる迄もずいぶんと打ち合わせを重ねた。

私の注文は色々あったが、ある時私が「各部屋の天井は高くしたくない」と言ったら、設計士の人達が不思議そうな顔をしていた。私は「日本座敷は入った時には天井が低く感じても、座ってみると落ち着くという高さがあるのではないだろうか」と言った。設計士の人達も確かにそういう事もあるだろうという事になった。それでは京都の伝統的な建築を見て歩こうと、彼等と京都の老舗旅館「俵屋」に泊まってあちこち見学をした。その「俵屋」の部屋の天井も低いものだったが、座ってみるとそれは落ち着いた空間が広がる。設計士達は眼を輝かせて、早速寸法取りをしたり、木材の材質を調べたりしていた。この時をきっかけに設計士達は猛烈に日本建築の研究に励んだようだ。

私の注文はまだあって、各座敷を一軒屋に見立てて、外壁は一階が黄漆喰で二階は赤漆喰にしたい。廊下は土間に見立てて床は土にしたい等々。設計士の方からも京都でお茶室に使う「深草」という土があって、それがうってつけだ等の答えも返ってきた。

設計の打ち合わせもかなり進んだ頃に、設計士達が部屋の大きさや形からいって床の間を下座側に持って行きたい部屋が二部屋あるといって図面を見せられた。なるほど下座側に床の間がある。私は「伝統を大切にしたい、奇をてらうような事はしたくない。ちゃんと床の間は上座に持って行きたい」と言うと、彼等は「上座と床の間は全く関係が無いのですよ」と言って何冊かの書籍を持ってきて説明を始めた。その中の一冊の書物には、上座という思想は中国の○○○(中身は忘れました)が日本に伝わり、小笠原流等でまとめられた。入口より一番離れている処、右より左が上、等と書いてあり、さらに床の間との因果関係は全く無いとはっきり書いてあった。他の書物にも同様の事が書いてあった。

さらに床の間についての本を見せられた。床の間は室町時代に僧侶が部屋に仏画を飾り、その前に机を置いたものが原型で、その後貴族や武家の間で主人の部屋や客間に「押し板」という空間に中国製の絵画や置物を飾る風習が起き、主人や客人がそれを楽しめる場所に据えた。それが框(かまち)や床柱等の組み合わせで床の間になっていった云々。江戸時代、庶民が床の間を作る事は許されなかったが、庄屋等は役人を迎えるという名目でそれが許されていた。そこで彼等は将軍が一段高い間から諸侯を謁見したような事をまねて殿様が座す間のような床の間を作った。もちろん高い段に座すのは恐れ多いので床の間を背にして座るようになった。当時の知識人はそれを「庄屋好み」と言って軽蔑していたとも。それが明治時代になると当時の高官や金持ちがこぞって「庄屋好み」を取り入れた等と書かれていた。

これらの書籍を私が読み終えると、設計士達は「本物で行きましょう。いろいろ調べたのですがこの二つの部屋の床の間はここが一番良いのです」と迫ってきた。私もそういう事ならとOKを出した。

割烹がオープンして一年位したら、某テレビ会社が著名な女流作家との対談の収録に一部屋使いたいと予約が入った。外からのケーブルを引き込んだりする関係で床の間が下座の部屋に決まった。ところがその女流作家は上座下座も解かってない無神経な料理屋で対談なんかできないと言って帰ってしまったと聞いた。それ以来、設計事務所にその二部屋の床の間の位置が正統な物であるという説明書を作ってもらい、お客様に聞かれたら渡せるようにしておいた。最近、その説明書の原稿が無くなったというので私が自分で書いてみようと思ってインターネットで調べたら、なんと日本間の上座は床の間の前しか出て来ない。当時の設計士はもう皆辞めているのでまたあの資料に巡り会えるのだろうか。一つだけ分かったのは、山科道安(どうあん)の記した「槐記(かいき)」によると、茶室では茶道口がある処が下座であり、織田有楽でも利休流でも床の間は上座下座に関係なく「下座床」「後ろ床」などと言い、自由に動かしていた事位である。



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