店主敬白・其ノ参拾八







小学生の頃、私が絵を描くといつも金賞を貰っていた。そんな事で父は私を画家にしたいと思ったらしく、私が小学生四年生になると、東京芸大の教授のアトリエで毎週日曜日に絵を習いに行かせる事にした。

最初の授業の事はよく覚えている。先生のアトリエは自宅から自転車で二十分位の処にあった。アトリエに着くと先生に迎えられ中に入った。その時の光景は私にはとても異様であった。約二十人位の芸大の受験生や在学生が、イーゼルを立てて画板に向かって椅子に座っている。先生は空いている椅子に私を座らせ画板を貸してくれた。異様だったのは、その学生達の向うに一糸まとわぬ裸婦がモデルとして寝ているのである。先生は君はまだ小さいからと言って一番前の椅子に席替えさせた。スケッチブックに鉛筆でスケッチしなさいとの事だった。

家に帰ると父が待っていて、描いた絵を見せろと言うので、先生の処に置いてきたと答えた。父からは、今度は持って帰ってきなさいと言われた。次の週は前の絵の仕上げだった。授業が終わってから最寄りの公園に行って、他の絵を描いて父に見せた。子供心にも恥ずかしかった。この先生のアトリエではもちろん他の絵も色々描いたが、やはり裸婦を描く事が一番多かった。その都度、公園に寄って他の絵を描いた。結局、裸婦の絵は一度も父には見せなかった。  

この先生のアトリエで絵を描く事は楽しかった。先生はとても多彩な色がこの世にある事を私に気づかせてくれたし、描く絵をまず心の中に描いてそして描く、その繰り返しによって完成させていくという方法も教わった。六年生になって中学の受験勉強のテストに行くようになって、いつの間にか先生のアトリエには行かなくなってしまった。このアトリエでの事はとても勉強になったのだが、裸婦の絵を隠す事は心が重かった。

それからもう何年も経って、私がもうこの商売に入ってからの事であるが、あるお客様のお連れが高名な画家であると紹介されて一緒に飲んだ。話の中で私が小学生の時に裸婦ばかり描かされたと話したら、その画家の人が「裸婦を描かなければ絵は描けないんだよ」と言った。「人間が美を感じる一番の素は女性の裸、特にラインだね。人間が生まれながら持っている美に対する本性なんだよ(今流に言えばDNAの事だと思う)。だから裸婦を描く事によって美意識というものがどんどん開拓されてくる。美意識の個性も育って来る」。そこで私は「それでは女性の美の素は男性?」と聞くと「ぜんぜん違うね。女性の美意識の素も女性の裸。人間がオスもメスもわからないアメーバーの時から培ってきた本性だもの。男なんかどこからか枝が分かれただけだもの」と言う。

私はこの画家の話にかなり得心した。漠然としていた美というものの概念にもちゃんとした帰結点があるという事が私を楽にした。頭で考えなくても私にも美を判断できるDNAがあると思えば、私が美しいと思ったらそれを信じて良いのだと。そして人の思いも、私の思いも帰結する処は似ているのだと。

以来、私は紆余曲折を経て、美しいものは水が高い所から低い所へ流れる如く自然体であり、決して低い所から高い所へ流れる様な不自然なものでないと確信した。

さてさて、そこで料理である。良い料理の真髄とは何だろうとよく考える。私は自然体であり環境に溶け込んでいる事だと思う。

自然体になってないと人のDNAは何か変だなとチクチクと拒否反応を出してくるものである。環境というのは、日本料理に例えてみると解りやすい。日本では冬ごもりする地方を除けば、一年中自然の恵みを糧にしている。だから素材へのこだわりは凄く強い。手が込んでいる料理でも素材の味は崩さない。また春夏秋冬、四季がはっきりしているので旬という事を気にするし、初物を大切にするなど環境が日本料理に大きな影響を及ぼしている。私達日本人はそういう料理を見て来ているから、昔からの流れやしきたりに違反しているとやはり変だなあと思ってしまう。環境も自然体の一部だから、いくら「おいしいでしょう」と言われても見た目に不自然な料理は何処かで拒否をしている。例えば海老フライをタルタルソースで食べるのは美味しいが、同じ揚げ物でもてんぷらをタルタルソースでと言われれば引いてしまう。刺身を葉蘭の葉に盛り付けるのは粋であるが、ゴムの木の葉に盛ったらもう日本料理ではなくなる。

美しいものや良い料理は必ず自然体である。そして人の体の中ではDNAの「いいぞ」と言うささやき声が聞こえている様な気がしてならない。


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