店主敬白・其ノ四拾







私共のレストランのメニューの大きなアイテムに活き伊勢えびというのがある。一尾四百五十グラム以上の大型の活きた伊勢えびを刺身にしたり、ボイルあるいは鍋物やしゃぶしゃぶにするのである。これを五千四百円位で売っていた。それが一年半程前から仕入れの値段が上がってきた。訳を聞いたら南アフリカで港湾ストがあってアフリカ産の伊勢えびが入荷しない為に、ニュージーランド産、オーストリア産等全てが値上がって、とどのつまり国産も上がっているとの事だった。確かに南アフリカ産の伊勢えびは日本にかなり輸入されていた。ストが原因であるならば少し待てばまた元の値段に戻るだろうと、しばらく様子を見る事にした。

しかし、それからも少しずつ値が上がるばかりである。ストはもう解決したのかと聞いてみたら、とっくに終わったそうだが値段が下がらないとの事であった。色々調べてみたが誰も原因がわからないようであった。料理長達は値上げをしたいと言ってきたが、ずるずる先の見えない値上げをしてもお客様に失礼である。値上げをするならメニューから外して欲しいというのが私の意見である。メニューから外すというと料理長達は尻込みしてしまう。やはり、これだけの見事な活きた伊勢えびを扱っているという実績が無くなる事に相当抵抗があるようだ。それが昨年の夏にはもう耐えられる値段ではなくなってきた。結局、大型伊勢えびはメニューから外す事になった。

時期はよく覚えてないけれど、確か昨年の九月頃だったと思うのだが、テレビのあるチャンネルで「マグロが食卓から消える」というような題名のドキュメント番組があった。内容はマグロ漁に種々の規制が強まる中、日本の商社マンが世界中でマグロを買い付けている状況を報じたものである。昨年になるとどこの商社も前年の量のマグロを買い付けられないのである。世界的なスシブームによって世界各国でマグロの需要が出て来た為であるが、中でも、名指しこそされなかったが、どうも中国の買い入れがすさまじい勢いで伸びている様であった。そして、その番組で特に印象に残ったのは「彼等、商社マンは過去にも同じ様な経験をしている。それはマグロと同じに買いづらくなって、ある日、突然買えなくなった魚介があった」と言うのである。私もテレビを見ていて「えっ! 何かな」と思っていたら「伊勢えび」であった。「ああ、やっぱり」という気持ちとぞっとした寒気を感じたものである。

というのも、昨年の二月に、中国の天津でレストランを経営したいという人がいて、私にもアドバイザーとして一緒に天津に付いて来て欲しいと頼まれて北京と天津に行ってきた。天津では海鮮中国料理の店を中心に八軒ほどのレストランを見学させてもらったが、とにかくどのレストランも大きい。日本のデパート位の大きな建物が一軒のレストランである。そして、どのレストランも一階にはおびただしい数の水槽が置かれて、活きた魚介が山のように入っている。特に伊勢えびは世界中から集まってくる様で種類の豊富さも半端でない。中国ではこの様な高級料理は自分達で食材を確認してから食べるようで、それで大量の魚介を陳列していると聞いたが、種類の多さにも量の多さにも圧倒された。売値を聞いたら日本円に換算してもかなりの値段であった。仕入れ値も聞いてみたが日本と同じ位の相場であった。という事は、これだけの大量の買い付けがあれば、流通の流れも変わってくるのかなあと思った。ただ、その時は日本の伊勢えび事情に影響しているとは考えず、素晴らしい伊勢えび等の魚介類をほれぼれと眺めていただけであった。

中国から帰ってしばらくすると、また伊勢えびの仕入れ値が上がったと言われた。その時になって、天津の海鮮レストランの事を思い出した。これはひょっとするとこの値上がりには太刀打ち出来ないのではないかという予感がした。なにしろ、人一人の月給位の値段のあわびやフカヒレ、そして伊勢えびが飛ぶように売れているのである。中国の経済の奥の深さはわからない。だから、テレビを見ていてマグロも本当に消える事もあり得ると思って、ぞっと寒気がしたのである。

日本は過去何年も日本人の食材の為に世界中の海の幸を独占的に買い付けてきたが、もう独占的という訳にはいかない。買い負けという日本にとっては試練の時が始まったのである。特に素材の良さに固執する日本料理にはつらい事である。しかし、この様な時代を経て、また新しい日本料理が生まれる様な気もするのである。


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