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日本の冬は、旨いものが溢れていると申しても過言ではないだろう。衿を立てたくなるような寒さの中、仕事を終えて帰り着く自宅に、奥様の熱い想いに満ちた鍋が用意されていたら、どんなにか幸せなことであろう。余計なことかも知れないが、昨今はこうした家庭が少なくなっているのだとか。旦那様と奥様の関係は疎か、親と子のコミュニケーションが全く取れなくなっているそうだ。

こうした由々しき問題は、すべて食生活に起因しているものと考える。昔は、祖父から孫までの三代、いや曾孫までの四代が同居ということも、然ほど珍しいことではなかった。我が家でも一時期、祖母、父夫婦、父の弟妹、そして我が弟妹、それに数人のお手伝いさんを含めると絶えず十五人くらいが一つ屋根の下で暮らしていた。こんな時は、言わずもがなで、食事の時間になると一斉に食べ出すし、掃除の時間になるとどこもかしこもバタバタとやっていた。そうした中で、お互いの立場を理解し合い補いあって暮らしていた。

そんな大家族の意志をまとめるのが、やはり食事の時間であったように思う。家長の父が弟妹に諸々の指図をし、叔父叔母が僕達兄妹の面倒を見る。祖母は、母やお手伝いさんの先頭に立ち、家事一切の仕切りを行なっていた。こうした大家族の食事は、決まって鍋料理だったような気がする。鍋だと、二人や三人の人間が増えようが減ろうがそう問題は起こらない。これが、ステーキやトンカツであると、確実に一人の取り分が減る訳だ。こんな時の祖母は見事であった。最初からステーキは適当な大きさに切り、トンカツも一口カツに仕上げる。

Kubota Tamami

我が家の大家族制も叔父叔母が大学を出て、それぞれが独立したのと同時に、お手伝いさん達も結婚して辞めていった。祖母も母との兼ね合いから、家を出て僕と暮らすことになる。運命の悪戯だろうか、大家族が一挙に細小の核家族になってしまったのだ。そんな暮らしになると、てきめんに家での会話がなくなり寂寞感を覚えるようになる。と、当然のことのように、部活を言い訳に帰宅が遅くなる。当時、十七歳。恐るべき十七歳と言われた世代でもあった。と言ったって、寂しさを紛らわす為にラグビーの練習が終わった後、気の合う仲間と食事をしたり喫茶店で屯(たむろするだけのこと。tするだけのこと。

今の日本には、居酒屋のような安くて若者が和める場所が多々あるが、当時はそんな場所を探すのが大変であった。町の片隅にある、喫茶店のようなラーメン屋のような、離婚したおばさんの家に入り込み、同年代の娘と共に長い時間を過した。おばさんが裁けた方で、僅かな料金で大食漢揃いのラガーメンをよくも面倒見てくれたものと、今になって感謝する次第。その時の料理といえば、おでんだったりチャンコ鍋のようなものだったり、大勢が箸を突っ込むのに最適な料理であった。

そんな時、僕が父とフグを食べた話をしたら、絶対に食べたくないという一派と死んでもいいから食べてみたいという二派に分かれた。と翌日、その店に大皿に盛ったフグ刺しとフグ鍋セットが用意されていた。おばさんが、知り合いの魚屋さんに頼んだという。おばさん母娘と我等五人は黙々とフグを啄(ついば)み、その旨さに感動した。するとおばさんが、
「明日で、この店は閉めます。縁あって、私が再婚することになったので、引っ越すの。長い間ありがとうね。だけど君たち、もう少し家を大事にしなさい。独立したら、食事は必ず家族でするのよ。忘れないでね」

爾来、鍋を囲む度に若き日のことを思い出すが、特にフグ鍋を食べる時は家族のことを考える。是非、全員揃って食べなければ、と。



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