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離島に暮らしていると、何もかにもを対岸のスーパーに買いに出ねばならない。確かに、不便といえば不便な暮らしではある。しかし、慣れというものは有り難いもので、食べものを工夫する生活になって来た。

例えば、大根を隣人に大量に頂いたことがあるが、生で味わうのは一、二本だけ。残りは、塩漬けにしておいたり、短冊に切ってから冷凍保存をしておく。小分けしておくと、そのまま味噌汁や鍋に使えるからだ。当然のことながら、切り干しにしておけば、これは二、三年の保存は可能だろう。

アサリにしても同じ、これまた一度には食べ切れない量を頂くから、これも生のまま冷凍にしておく。後に自然解凍すれば、酒蒸しだってボンゴレにだって簡単に変化してくれる。

但し、新鮮さという観点からは少し外れるから、泊まり客をもてなす場合には買い出しに出なければならない。この買い出しだが、フェリーに乗って十分ばかりで対岸に到着。船着き場のすぐ横に市営の駐車場があって、駐車料金は月に五千円。普通乗用車一台をフェリーに載せると五千円弱払わねばならないから、車はその駐車場に保管して必要なときだけエンジンをかけることにしている。

博多といえば、賑やかなところは天神界隈だが、人が多いので疲れを覚える。何も人酔いするような場所を訪れなくても、半径二キロくらいの所に超大型のスーパーやホームセンター十店鋪はあるだろう。最近になって、ようやく各店鋪の特徴が判って来たから、使い分けて買いものをしている。だから、便利さということになると、むしろ今の暮らしの方が恵まれているのかも知れない。到底、東京の暮らしでは考えられなかった生活方法を、七十歳に近づいてから始めているのだから惚けている暇がない。

Kubota Tamami
こうした離島の暮らしの中で、特筆すべきことを発見した。家を建てた周辺の殆どは、昔は畑だったか田圃であったところで、今は放置されていると言ってもよい。従って、篠竹が蔓延ったり雑草だらけの野原になっている。それでも、ビワやミカンを植えているところもあるのだが、全くといってよいほど手入れもしていない。年に一回か二年に一度くらい、下草を刈る程度ではないだろうか。だから、ビワやミカンは完全なるオーガニックフルーツ。中でも木に成ったまま完熟したミカンは素晴らしく旨い。誰も収穫に来ないから、ほとんどが野鳥の餌になっている。この果樹園らしきところに、俳句のネタを探して歩いていた。二月のことだから、季題は『下萌』であった。わずかながら初々しい緑の芽を出し始めた草の中に、見覚えのあるアザミが芽を育んでいた。アザミの花は、桜の花の前後に咲くから、季題にならない。折角だから、僕の好きな句を紹介しておこう。僕の句の師匠の祖母にあたる星野立子の作品。

あざみ濃し芭蕉もゆきしこの道を 立子

アザミは四月に咲いて、種を散らして数か月すると発芽する。この若葉が、越冬をして徐々に株を大きくし、その翌年に花を咲かせることになる。アザミの花は皆様ご存知だろうが、その若い芽株がおいしいことを知っておられるだろうか。僕は天ぷらで味わったことがあるが、仄かな苦味があって旨かった。ということで、一度野の中でアザミを見つけて、新鮮なものを食べてみたかった。根が旨いのだが、大量に取ると来年花を見られなくなる。そこで、根の少し上を切り先ずはお浸しで食べ、天ぷらも味わった。浸しも旨かったが、湯通ししたアザミを、そばつゆで煮付けてみたら、これが大正解。どうやら、我が家の春の定番メニューとなりそう。但し、しっかり革手袋をしていないと、アザミの棘の逆襲に遭ってしまう。


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