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博多湾に浮ぶ能古の島に居を構えて、早一年の月日が流れた。と言ったって、月に数回は東京に出て仕事をする訳だから、完全な移住とは申せないのかも知れない。おまけに、博多に引っ越したと言う情報を流した為もあって、引っ切りなしに友人知人が新居に訪れて下さる。余りの客の多さに、島の方々は、
「ダンさんとこは、民宿ばやんなはっとるげなねぇー。よう流行っとんなさるばいなー」
かなりの数の島民方は、僕が民宿か食堂をやっているのではないかと勝手に思い込んでおられるのだ。

かつての能古には七、八軒の旅館や民宿があり、土日等は多くの客で賑わっていたようだ。が、最近は遊び方の形態が変わって来た故か、旅館も徐々に廃業し、民宿が一軒と旅館が一軒だけになってしまっている。
但し、春の菜の花と秋のコスモスの時季、それに夏休みの土日には大勢の観光客が来島し、定期便では間に合わず臨時のフェリーが何本も増便されている。

Kubota Tamami
しかし、島の食べもの屋さんは五軒あるかないかだろう。普段は閑古鳥の鳴いている食堂に、行列が出来ている日も多々見かける。そんな光景を目の当たりにした悪友は、
「タローさん、土日祭日だけでもラーメン屋営業したらどうなの。家のロケーションも最高だし、ダンさんのラーメンだったら忽ち行列ができるんじゃなーい。やればーぁ」
他人ほど無責任なことが平気で言えるものである。確かに、僕は大のラーメン好きではある。日本の各地のラーメン屋を食べ歩き、ある程度のラーメンの知識と情報と技術は持っているかも知れない。これが問題なのである、中途半端な知識と技術では、本当のラーメン屋は開けない。僕に欠けているのは、情熱ではなかろうか。四十代の半ば頃だろうか、世の中のラーメン店の余りの不味さに怒り、
「よし、行く行くは、ラーメン屋をやろう。屋号は『百杯屋』、一日限定百杯で、最高級の焼豚を乗せた醤油ベースのラーメン。隠し味はいまもって秘密だが、世の中の大半のラーメン屋が毒されている、グルタミンソーダつまり旨味調味料は一切用いない」。

今の世の中、博多は豚骨ベースの出汁、鹿児島あたりは豚骨とかつお節の出汁、東京や関西の老舗は、鶏と昆布と魚介類の出汁を巧みに使って、かなりの味を醸し出していると思う。だがしかし、勿体ないのは折角おいしい出汁を仕上げているのにも拘わらず、最後にグルソーを入れてしまうことに尽きる。この、魔の白い粉を用いると、出来上がりのレベルが平均化してしまうことだ。おまけに、食べた後、口の中に妙な甘さが纏わり付くだろう。キリリとした、切れがないのである。もう一つは、焼豚と言いながら、味の抜け切った煮豚を平気で出している。煮豚だって、東坡肉のような旨いものがあるではないか。だったら、最初から旨い煮豚を作り、堂々と角煮ラーメンという風に謳えばいいだろう。

ここまでぶつぶつと文句を言うのであれば、確かにラーメン屋を開けばよいのだろうが、今は野菜作りや魚釣りに没頭したいのだ。一年暮してみて、おぼろげながらではあるが能古の土壌のことが判り、島の魚の生態も掴めつつある。こんな大事な時に、ラーメン屋は到底開くことは出来ない。ましてや、豚や鶏といったラーメンのベースになるものは、福岡以外の地方から取り寄せて暮している。ラーメンが食べたくなれば、前日から麺を打ちチキンベースの上湯を醸し、女房殿の特製の焼豚と畑の野菜を添え、友人達に「どうだ、旨いだろう」と、豪語している。


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