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カントリー・ライフの落し穴

二週間ぶりに東京に帰ってきてほっとした。夏の軽井沢は、私にとって一年間たまったストレスのリフレッシュ期間だけど、ヴァカンスが終わって東京に帰ると、なぜかやれやれ、と一息つくのも事実。 

東京は暑い、排ガスが見えない手で首を絞める、夜明けに窓を開け放って眠る快適さも、揺れる木々の緑も、鳥のさえずりもない。それなのに、帰ってきて、洗濯物をGEの洗濯機に投げこみ、荷物をかたづけてダブルベッドにひっくり返ると、

「トーキョーってラク!」

「ネコたちの心配しなくてイイ!」

と娘と叫んだのは、なぜ?

軽井沢の住まいは古い和洋折衷のつくり。網戸のロックも木枠につけてあるけど、横長のだだっ広い家は、ネコたちが変なところに入り込んでいないか、外に迷い出てないか、いつも気を配ってる暮し。ジジは来た最初の年に、庭に消えて夜明けまで戻ってこなかった前歴がある。ペットのいる家庭にとって、ヴァカンスは試練の季節だ。

休みで都会を出るのはきらい、という人もいる。帰りの道路の渋滞、それを避ける苦心(うちでは明け方の四時に山を下りる)、帰ってからの荷ほどきと洗濯物の山、こもった空気の入換え……。

でも、そんなのはたいした問題でない。私がほっとするのは、東京の暮しは人間の省エネが出来てラク、軽井沢の暮しは人手を要求する、その違いだ。それも年々増えることだ。

ほんとは省エネでない暮しが、カントリー・ライフの楽しさだ。木々の枝を伐って下草の日当たりをよくしたり、ペイントを塗り替えたり、庭にくるサルをスケッチしたり。でもそこに、人為的なエネルギー食いが現れた。その名はゴミ処理。

私も娘も、人混みがキライ。その対極にあるのが、ひたすらうちにいるのをエンジョイすること。外食しないから、お料理のゴミが出る。野菜の皮、肉の脂、とうもろこしの皮と芯、グレープフルーツの皮。夏休みのお楽しみは、木陰のワイン、夕暮れのシャンパン。あき瓶が出る。ネコのエサは缶詰だ。ネコも外食しない。

そこで食料の調達とゴミ捨ての二つ、これをどう処理するかが、快適な夏休みの頭脳作戦になった。

そこで去年から頭脳作戦をたて、食料は、スーパーに買いに行かないですむ工夫をした。東京から、肉類とエコ農業の野菜やパンを冷蔵と冷凍で送りつけておく。軽井沢のパン屋には白いパンしかない。スーパーは、不自然な加工食品の山、きつい冷房――盛夏に16 ℃――の不健康な場所。

東京を出る前は、リストに頭をひねる。

「ハムの塊。ビーフと子牛の挽肉。チキンブレストとレッグの骨抜き。タン一本、ラム肩肉一本、豚フィレ肉一本、ステーキ四枚……」 

「ホールチキンどうする?」

「だめよ。骨の出るものは。捨てるのが大変」

ニクの塊を持って行くのは、軽井沢のスーパーには、小さくカットした肉ばかりで、しかも味付けしたのが多いから。日本の消費者は無精で人まかせだ。


公民館のゴミ収集所、広いけどゴミが溢れる


骨の出ないニク

ひと夏の食料は、骨の出ないものばかり。

「骨が出ると、処理に困るでしょ」

人殺しじみたコメントは、ゴミ捨ての大変さのせい。東京のゴミはいま二十三区の事業で、区によっていろいろだが、私の家は戸別収集だからラク。燃・不燃・資源の三つの区分で、資源ゴミは新聞・雑誌・段ボール・瓶・缶の五種だから、合計で七種類。置き場所に困るけど、なんとかこなせる。

軽井沢は十四種類に分ける! 不燃は包装用のプチプチと、食品ののっていたトレイは別、クリームの空き瓶も別(どこに入れるのかわからず、東京に持ち帰った)。捨てる場所は広い高原に幾つもなくて、わかりいいのは、〈旧道〉の名の、街なかの公民館。そこまで運ぶのはせめて週一回にしたい。

「庭に埋めればいいじゃないの」

草津のマンションに夏くる男友達が言った。

「ダメなのよ。イノシシやサルが来て掘るから」

彼はゴミを草津のマンションまで運んでくれた。

まちに出る日は大仕事だ。トランクにシートを敷いて、その上にゴミ袋を山と積む。ワインの瓶は重いし、台所のゴミは汚水が心配だから、二重に袋に入れる。この袋が東京と違って高い! 二十枚入りで、大小によって三百円から五百円。東京なら四十五リットル入りが二十枚で百円程度だ。

ゴミ捨てのついでに、「出キライ」は用足しもしなけりゃ。メモをつくって一挙に片づける。
「ミルク五本と卵、小林酒店で」
「お友達の『ビー・マーシイ』と郵便局も」

田舎では郵便物などこないし、ポストもないから郵便を出すのは一仕事だ。ドライヴついでに望月の郵便局で倉敷に手紙を出したら、四日後に着いた。

ゴミ捨て行は、二週に二回ですませた代わり、毎度、山のよう。軽井沢の合い言葉は、

「ゴミにならないように、お料理するのよ」

本末転倒だけど、しかたない。でも作戦の勝利で骨は無しですんだ。地元でいつも買う鱒池のマスも、今年は骨が出るので敬遠。食卓では、

「残さないでよ」

「しょうがない、ゴミを増やすより、おなかに入れるか!」
最後のポテトが口の中へ消えるのだった。

東京に戻って気づいたのは、もうひとつラクなことがあった。軽井沢の古い家は、窓がやたら多いのだ。開け放すのが好きな両親の好みで、天井から床までの引き戸の窓ガラスが、重い木枠に嵌められて、ずらり並んでいる。窓の敷居は、網戸の分も含めると専門家も驚く幅で、三十センチ以上。

これを毎朝あけ、夜閉める。気持ちいいから、開けないわけに行かない。数えたら、なんと窓ガラスは全部で三十六枚。引き戸だから、実際に引き開けるガラスは二十八枚。朝夕の作業はまるで、

「お寺だわ!」

「だからお寺は、閉めないのよ」

私の知ってる住職は、夜も開け放しですよ、と笑っていたのは、このせいだ。

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