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チョコレートパイの謎

あれ? 思わずフォークを置いてお皿の上を見た。

ホテルで買ってきたチョコレートパイが載っていて、それはいつもと同じパイ、同じ姿なのだけど。

久しぶりに買ったそれは、パイ皮がショッパイのだ。ことにパイの縁の塩をきつく感じる。

「おかしいわね? 前、こんな味だった?」 

「ぜったい違うわ。パイの底も超薄くてヘン」

娘と首をかしげあった。

「ホテルに訊くわ。残しておかなくちゃ」

縁をつけたまま、少量を大事に冷蔵庫に入れた。

すぐホテルのなじみの黒服に電話して、塩味がきついのよ、レセピを変えたの? と訊いた。おいしくて好きだった食べ物の味が変わるほどがっかりすることはない。ことにそのホテルのチョコレートパイは、何十年変わらずにクラシックで、父が生きていたときは、家族で集う日曜のお茶用にまるごと一台買い、うち用には人数分だけピースで買っていた。

ホテルは、名前を言えばすぐわかる、国賓も泊まる一流のところ。パイはこの二年ほど買わなかったように思う。お昼の外食がいのちだった父のお供は、永年の子供のつとめだったが、父が亡くなってからは必要がなくなり、ホテルのコーヒーショップを使う頻度が減った。でも、永年つきあってきたホテルだから、変に変わってほしくない。

翌日、ベイカリーの担当者から電話があって、

「別のを持って上がります。召し上ってみて下さい」

と、うちで買ったのと同じパイを二切れ届けてきた。こちらは冷蔵庫からうやうやしく取り出した昨日の切れ端を、銀紙のカップに入れて渡した。

夜、新しくきたのを食べてみた。また塩が強い。

翌日、製菓の責任者が電話してきた。私は、

「やっぱり塩が強いわ。レセピ変えたの?」

答えはノン、昔からずーっと同じです。

「あなた食べて見て、塩辛くなかった?」

「いいえ」

でも私たちは、絶対に塩味がきつくなったと感じる。ホテルは、レセピは何十年同じで、塩の量は変えてない、と断言する。粉9キロに対して、塩150グラムだという。
閃いた! 塩だ。塩の種類にちがいない。

「どんな塩を使っているの?」

「“専売公社”のです」

「あー、じゃ、天然の塩でなく、塩化ナトリウムだったのね!」

ついにナゾが解けた。塩化ナトリウムだけの塩は味がきつい。うちではとっくに追放した塩だ。同時にショッキングな事実が見えた。ホテルはお客の健康も、出すものの味も、二の次なのか?
20年まえ、家庭の台所にあった専売公社の塩の赤い蓋の卓上瓶。いまも置いてる家庭が、どれほどあるだろう? まずい、健康にもよくない。なのに一流ホテルが、〈純度の高い塩化ナトリウム〉をレストランの厨房で使っていたとは!

日本の塩は、1980年に民営化で日本たばこ産業になるまで、永年、専売公社の独占事業だった。ひとことで言うと、これが日本の塩を「化学塩」に化けさせた。専売公社は塩化ナトリウムの純度を上げることを追求して、「99%以上」にし、天然の海水に含まれているミネラル類を根こそぎ取り去ったのだ。

塩の群れとソールト・ミル、白い蓋の瓶は立て塩



天然塩には海水のミネラルがいっぱい

海水からとる天然の塩がおいしいのは、いまは常識で、海水に含まれるミネラル類がほとんど含まれているからだ。塩に限らず、純度の高い食べ物は、自然からいえば疑わしく、身体にいいものでない。塩化ナトリウム99%の塩は、化学のバケモノだし、白砂糖は純度97%以上で、ヴィタミンがないワルイ食品、白パンも同様だ。「有害食品は漂白された四人衆で、白パン、白砂糖、精製食卓塩、水素添加脂肪」だと「植物の神秘生活」にもある。

味と健康に敏感な家庭では、天然塩を何種類も置いている。うちでも日本の塩は、海のきれいな沖縄の、天草の海辺で天日で製塩している人の塩。ハワイの海の塩も、イタリーのもある。グルメのフランスの塩は極めつき。パリの友達は岩塩や、ゲランドの、ブルターニュの海の藻のはいった灰色がかった塩をクリスマスに送ってくれた。フランスの海の塩の定番はゲランド(Guerande)で、粗いの、細かいの、豊富にそろっている。塩をくださる人は大好き。塩を挽くためのミルも欠かせない。

うちで天然の塩に変えてから、20年になるだろうか。舌も身体も、自然の食品になじんでくると、不自然な食べ物や化学的な味に敏感になる。塩がきつい、甘すぎる! からだがおのずとノーを言うのだ。ルヴァンの自然なパンを食べて二年になるが、するといっそうホテルや有名店の白いパンを、凝った配合でも、前のようにおいしく感じなくなった。

塩化ナトリウムの発言に、製菓の責任者に言った。

「会議の大事な議題だわ。全レストラン、パンのベイカリーも、塩を再検討すべきじゃない?」
いまは家庭の方が吟味した、身体にいい材料を、野菜から塩、卵、油、お酢、お米、すべてにわたってそろえている。不特定多数を相手にする採算第一の企業には、なかなかできないだろう。
「割烹では、天然の塩を卵白で練って、それを煮て、灰汁を掬って立て塩にするのよ。うちでも最近和食にそうしてるの。塩ってそのぐらい大事なの」

彼は、驚きの第二弾を放った。

「実はパンも、ホテルでは焼いてないんです」

「えー? どこで焼いてるの?」

「木場にあるホテルの工場です」

「じゃ、運ぶのにミニマム一時間かかるから、焼きたてのパンがもう、ないわけね!」

ナゾがまた解けた。パイを買った午後、コーヒーショップでブリオシュを買おうとしたら、ブリオシュはおろか、パンがほとんどなかったのだ。食堂の裏のベイカリーで焼いてるなら、売れ行きを見て、どんどん焼きたすことが出来るけど、遠い東京湾岸の木場では、どうしようもない。
私はリーガ・ロイヤル京都で、朝食に焼きたての、ほかほか温かなブリオシュやカップロールがルームサーヴィスで届けられたおいしさを思った。文化とは、そういうものではないか。

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