花の季節
紫陽花の花。字からも美しい季節の花。梅雨どきに田舎道に群がって咲いている様子は、うっとりする美しさ。ある年福井へクルマで出かけ、途中永平寺へ寄ったことがある。道ばたにたわわな紫陽花の花が群れて、雨の中でブルーの宝石のかたまりみたいに輝いていた。
最近のフシギは、こんな親しみふかいあじさいの花が、肝心の季節には花屋にないこと。出盛りは三月で、四月には、買いたくてももう店から消えている。
チューリップは秋から春までちゃんと店にある。バラは季節と関係なく一年中のものなのは、温室育ちだからかな。でも時折、蕾のままで開かずに枯れてしまうバラもある。店で薬漬けにして売るせいだろう。
花については腑に落ちないことが多いけど、最近の日本の暮しそのものが、はてな? と思うことだらけ。夏でもおいしくないトマト、味のしないキュウリ。農薬と栽培法に問題がありそうだ。
うちでは、普段は地球人倶楽部のエコ農業の野菜を使っているから、ヘンな野菜からは解放されているけど、ワサビで失敗したことがある。
デパートの鮮魚売り場でお刺身を買い、ふと同じフロアの八百屋を見ると、伊豆のワサビがある。渡りに船と、いやに大きさの揃った、緑あざやかで太ったワサビを買った。日頃見ている、やせたり、曲がったり、太かったりで、値段にばらつきのあるのと違う粒ぞろいのワサビで、どれも六百円。
お刺身に添えたらおいしくない! ツンとくる味がない。香りもない。八百屋のお兄さんに、
「あのワサビぜんぜん香りがしなかったわ」
「水耕栽培なんです」
と告白した。山の清流で育った自然の品でなかったのだ。野菜は自然のでないとダメ、と肝に銘じた。
六月はさくらんぼの季節だ。この季節にはうちではワクワクして玄関のチャイムの鳴るのを待っている。山形からさくらんぼを送ってくる人がいるのだ。産地からくる品は、東京の店で買うのと味がちがう。流通でのロスタイムがないからだろう。今年もそのサクランボを楽しみながら、娘が、
「大発見! 果物は季節どおりね」
と言った。「花もお野菜も季節がなくなったけど、果物だけは自然の季節じゃない?」
「そうね。サクランボも、岡山の桃も」
私は首をかしげた。「きっと、樹になるからじゃない? 果樹園中を温室には入れられないもの」
自分で言って、ホッとした。もしサクランボやミカンが一年中あったら、楽しみが減る。世のおいしい果物は、いちじく、桃、びわ、プラム、梨、山とあるけど、樹になる果物が季節にしか手にはいらないのは、ありがたいことだ。誰かが、巨大ドームを発明して、岡山の桃畑ぜんぶを覆ってしまい、一年中、あの汁気たっぷりの大きな桃が出回っていたら、待つ季節の楽しみがなくなる。
うちの幸福のハイライトは、六月の山形のさくらんぼ、次ぎが八月の岡山の白桃だ。世に岡山の白桃ほどおいしいものはなく、あれを上手に食べないひとは、食べる資格がないと、私は思っている。
目黒のサンマでなく、桃は岡山、店では〈志ほや〉と〈佐野屋〉だ。箱を開けるときの期待感、蓋を取ると浦島太郎じゃないが、すーっと立ちのぼる桃の香りにうっとりする。岡山の桃は芸術品だ。
これを食べるときは、熟れ具合をみはからい、食べる二時間まえに冷蔵庫にいれ、指で皮をむく。決してナイフは使わない。歌舞伎の市村萬次郎さんを軽井沢に招いたとき、とっときの白桃を出した。お連れが彼のために剥いてカットするからナイフを貸して、という。私は断固、
「だめよ。これは自分の手で皮を剥いて、じかにかじって食べる人しか、食べちゃいけないの。ひとに剥かせるなら食べないで」
萬次郎さんはすなおに自分で剥いて食べた。
|