日本人は、お正月には普段とは違ったハレの日の料理を食べます。それは土地や家によっても違いがあります。また、今ではほとんど食べられなくなってしまったものもあります。
そんなお正月料理について、土地の慣わしや想い出なども含めて、全国の小誌参加店のご主人、女将さんに綴っていただきました。


おらが土地の正月料理の原稿依頼が来た。おらが土地は、明治二年開拓使が設置され八月に蝦夷地(えぞち)から北海道と改称された土地である。おらが土地の移住者(出身地)は、山形、新潟、岩手、宮城、山口、福岡など、つまり全国津々浦々から集まって形成されている。然るに、雑煮ひとつをとっても、我が家とご近所の雑煮は餅の大小、形、ダシ、具、みんな違うのである。子供の頃は、暗黙の中に他家の正月料理に文句は言わない掟があった。

そんな時代に育った私だが、非常に珍しいお雑煮をごちそうになったことがある。函館出身のお宅で、今は大変高価になった塩鯨が、焼いた餅、大根、ニンジン、コンニャク、木綿豆腐、長葱などとともにたっぷり入っている。塩鯨からとても良いダシがでるので、昆布や鰹節などは一切使わないとても美味しい雑煮である。函館は明治以前から松前藩が北からの守りをしていた土地で、アメリカが捕鯨漁の中継基地として利用したがっていたためか、おそらく鯨肉に接する機会が多かったのが、正月料理に反映しているのではないかと推測している。

ところで我が家の正月料理はというと、山形出身で樺太に渡り戦後小樽に引き揚げてきたお手伝いさんが、現在九十四歳で今も元気で我が家の正月料理を家内に伝授しているが、家内は東京出身、少しずつ我が家の正月料理にも家内の実家の味が入ってきている。

おらが土地の正月料理はどこの土地か(笑)。


みちのく独特のお正月料理といえば、何といってもお雑煮で、切餅を焼くか、つきいりといってつきたてのお餅の上に山高く具を盛る。大根、人参、ごぼう、それに凍豆腐の線切をゆがき、峩々では四、五人分位ずつ丸め外に出して凍らせる。その事で煮くずれしない昔の人の知恵で、一般には食べるたびに線に引くのである。

(しみ)豆腐は、水切りした豆腐を一センチ位にスライスして、藁(わら)で編みあげ蔵王おろしの寒風にさらし、水分を飛ばし固くなった物を水で戻して使うこの地方の冬の食材で、春のお祭りのお煮〆で全部使い切るのがならわしとされている。

だしは昆布とかつをの物に鶏が入る事で深いものとなる。更に上等のお雑煮は伊達政宗の時代から松島のはぜの干したものが使われ、醤油味にし、かまぼこ、三つ葉、いくらが線切の上に乗せられ、最後にはぜが鎮座まし完成となる。他には引昆布がある。三陸産の柔らかな昆布の線切に人参、大根、糸コン、油揚、凍豆腐の線切を煮干しでふくめ煮する。柿なますをはじめ他は全国共通のおせちではないかと思う。

事とさようにお正月の準備はひたすら野菜の線切を余儀なくされ、これがお料理上手か、お嫁に行けるかの物差しにされる程である。七日の七草も終え、十四日は松飾を天まで燃やすどんと祭となる。お餅を入れた小豆粥に秋に漬けた大根漬が初お目見えする。神社に納めいよいよお正月ともお別れの夜、今年の沢庵談義となる。

各家庭ではなかなか難しくなって来たからこそ、峩々でふるさとを懐かしんで頂こうと田舎のお正月を残していこうと思っている。すでに何年もお正月は峩々で迎えているのでお餅もお節料理も心配した事が無いとおっしゃるお客様も多く、すっかりみちのくの味になじんでおられるようだ。実家に思って頂けているのなら、私は幸福な実家のお嫁さんしている事になる。


私の生家は、魚河岸が日本橋にあった頃から赤坂で『とゝや魚新』として、魚屋、仕出し屋、料理店として現在に至るが、三年前息子が四代目として事業を継承し、二年前丸ビル店を新規に立ち上げ、この春『六本木天ぷら魚新』をコレド日本橋に移転、確実な歩みで百十余年の歳月が流れている。

私が子供の頃の正月料理と言えば、お客様にお届けした『おせちの重詰』の残り物と決まっていた。当時のおせちと言えば、江戸時代から変わらず伝わるきんとん、黒豆、田作り、伊達巻、赤白かまぼこ、野菜の煮〆、鯛の塩焼きであったが、今では中々お目に掛かれない付き物の数の子は、『干数の子』が当たり前だった。

この干数の子は、今の塩数の子とは比べ物にならない食感の美味な物だが、美味しく食するには大変手間のかかる代物で、寒い暮れの時期に人樽に干数の子を入れ、水を変えながら三日程戻し、その水の中で薄皮を剥き、それから正油味に漬け込んだもので、霜焼け、あか切れの思い出がよみがえってくる。それに今でも変わらない雑煮がある。鰹節と昆布の出し汁に鶏肉を入れ、熱々の汁に三つ葉を入れ椀に盛ったところに、こんがりと焼いた餅を「じゅ」と音のするタイミングで入れ、後は口柚子だけで食している。

今の『とゝや魚新』でも重詰料理をお出ししているが、添加物を一切使用していないので、お客様と同様の料理を家に持ち帰り、二日目、三日目を点検する役目となっている。しかし、三が日は、雑煮と白菜漬、日本酒は欠かせない。


中央日本を南北に走るフォッサ・マグナは日本列島を二分しています。その西縁は糸魚川・静岡構造線であり、東縁は直江津・小田原構造線となります。

このフォッサ・マグナを境にして、年取り魚は、東日本の鮭文化と西日本の鰤文化に分かれます。長野県においても飯山、長野、上田、佐久の諸盆地は鮭文化圏ですが、松本、諏訪、伊那などの諸盆地と木曾谷は鰤文化圏になります。

信州においては「鮭川」は千曲川、犀川、姫川の三川で、最も鮭が獲れたのは奈良井川、梓川が合流する犀川で、松本盆地の中央に位置する明科付近でした。このあたりの河床が湧出する地下水は8℃、鮭が成長する適温でありました。昭和初期までは東筑摩郡は長野県下で最大の水揚げがあったにもかかわらず、松本地方は年取り魚に鰤を用いたのは、戦乱の時の上杉と武田の川中島合戦のラインとのかかわりと、歴史的に上方文化が松本地方にまで達していたのではないかと思われます。

このように歴史的な文化の違いから、私のいる松本では毎年の年取りには、氷見の塩鰤を焼魚にして、正月元日の朝にはお雑煮、二日はアラ煮(または鰤大根)として食べつくします。

鰤はフクラギ(福来魚)とも呼ばれ幸福をもたらす魚で、この一番のお魚を一年の終わりと始めに食べてたくさんの福が舞い込むように、と私のじいちゃんが教えてくれたことを思い出します。今年も魚屋に氷見の一番良い塩鰤を注文しました。――よい一年でありますよう祈りながら。


パラパラパラと屋根を叩く霰(あられ)の音と、一瞬の閃光に大地を揺らす雷。「雪起こし」また「鰤(ぶり)起こし」とも呼ばれる初冬の手荒なセレモニーを経て、金沢は本格的な冬を迎えます。

「雷に驚いて海の底のぶりが網にかかるんだよ」と子供の頃教えられたように、鱈、鰤、ずわい蟹と冬のお魚が出そろい、正月用品を買い求める人で近江町市場も賑わいをましていきます。

鰤起こしを待ちわびたように、金沢の各家庭では「かぶら寿し」の本漬けに入ります。輪切りにした青かぶらに塩漬けの鰤を挟み、丹念に麹を乗せて漬け込んだ「かぶら寿し」は金沢のお正月には欠かせないもの。

かぶはサクッとしていて柔らかく、極上のロースハムのようなピンク色の鰤の身は決して塩辛くなく、淡雪のような麹が全体にまろやかな甘みを醸し出す。そんな一番美味しいかぶら寿しをお正月のお膳に乗せるため、金沢の主婦は空を眺めながら、かぶの漬け時に腐心します。下漬けから美味しく頂けるまで、気温に最大の注意を払いながら四十日はかかるかぶら寿し。近頃は暖冬のため、鰤の塩漬けや青かぶらの下漬けは冷蔵庫に頼らざるをえない年が多くなりましたが、本漬けだけは鰤起こしの空の下、凍える手で一枚一枚丹念に漬け込みたいものです。お正月までの日にちを一枚一枚数えながら。


おせち料理の事? 原稿依頼が来たとき、ハタと困ってしまった。というのも滋賀県、特に北近江のこの辺りは、「うわぁ〜」と感嘆詞が出るほど賑やかな御節料理がない。味の点は別としても、見た目には圧倒的に茶色が多い。カズノコと玉子焼き(伊達巻きではない)の黄色くらいがせめてもの救いである。代表的なものを挙げてみる。棒鱈、黒豆、田作り、たたき牛蒡、酢蓮根、ひねり蒟蒻。ネ、色彩的に美味しそうな華やかな色がないでしょ。

雑煮はもっと寂しい。清まし汁か味噌汁に丸餅がコロン、と入っているだけで、それに削り節を乗せて食べる。雑煮というより餅煮、である。
正月早々、恐縮ながら、寂しいのはまだある。鏡餅(オカガミサンと呼ぶ)も二つ重ねのお餅に蜜柑をポンと乗せただけで、ウラジロだの、串柿だのは飾らない。門松が極めつけ。細〜い五十センチほどの松の枝を玄関の柱に飾るだけ。コモの胴巻きをしたお馴染みのやつは、駅の改札に観光用に在るくらいなもの。

長々と書いてきたが、これらには理由がある。この地方が井伊家三十五万石の領地だった頃、藩の財政が逼迫し大改革が断行され、その時に藩主自らが木綿を身に着け、正月も前述のように質素に迎えたことがあったらしい。慈来、簡素な正月仕度となったようだ。

とはいえ、正月気分というのは独特なもので、茶色い御節が多かろうが、門松が小さかろうが、子供の時分からナントナク浮かれた気分で過ごした記憶しかない。

旅館という商売柄、暮れも正月も仕事ばかりしているが、近年益々浮かれ気分に輪がかかって来たように思う。コンナンデエエンカイナ? 幸福口福。


愛知県の最南端に位置する渥美半島は、以前より「常春の島」として名が通っておりますが、実際は日本海からはるばる吹き降ろす空っ風によって、想像以上に寒さの厳しいところでございます。昔よりその空っ風を利用して、渥美半島特産の渥美大根を天日で干し、十分乾燥して作ったものが、「渥美沢庵」として皆様にご贔屓いただいてきたものでございます。

その大根を天日で干す姿も、今ではなかなか見られなくなっておりますが、昔ながらの製法を頑なに守って作っておりますのが、当館自慢の「渥美沢庵の一本漬け」でございます。一度味わっていただいた当館のお客様には、二度三度とご注文いただくお客様も数いらっしゃいますが、こういう昔ながらの渥美の姿を大切にしながら、地元の食材にこだわり、より新しく、また健康で本当に美味しい味を探求したいと私どもは思っております。

当館におきましては毎冬、皆様にお楽しみいただいております、天然とらふぐ会席でございますが、今冬より新しく「ふぐみそ」という御献立をご用意いたしております。

ふぐと申しますのは、今でさえポン酢にて食するのが常でございますが、元々味噌仕立てで食されていたものでございます。それを再現するべく、地元の八丁味噌と京都の西京味噌をあわせ、それにふぐのすり身と秘伝を加え、出会いものであります地元の牡蠣と渥美大根の風呂吹きを朴葉で炭火焼きにしたものでございます。このまったりとして濃厚な味は早くも評判を呼び、多くのお客様の舌を楽しませております。

このあつあつと寒風と、新しさと伝統と、地元と出会いものと、さまざまな形を今後とも私どもでは模索し、日々の精進を続けていきたいと思っております。


「祇園さん」と呼ばれる八坂神社では、大晦日の夜から元旦の早朝にかけて削掛の神事を見て、その神火を火縄に受けて持ち帰り、元旦の雑煮を炊く火に使うのが古くからの京の習わしである。

京都の雑煮は白味噌仕立て。神仏にお供えするものは、生臭さをつつしんでお昆布だけでだしを取る。中に入れる具は、小餅、おかしら、雑煮大根、小芋、「今年一年丸く、人様と争わず、出世して頭になるように」と、すべて丸い。

雑煮大根は葉を落とし、小口から薄切りにしておく。頭いもは皮を厚く丸くむく。お正月の三日分を、暮れの三十日か大晦日のうちに、蒸すかゆがいて用意をし、新しい器に入れ、まっさらな布巾を掛けて戸棚へ。かつをも前日にかいておく。たいていは冬休みの子供か、丁稚さんの役目であった。かつを箱を渡され、薄く長くとやかましく注意されながらゴシゴシ。これを元旦に雑煮のお椀に張ってかける。

元旦の朝は若水をくみ、四方を拝して、つつしんで神様の火で雑煮を炊く。戦前までこの風習は固く守られて、それは男の役目であった。

昆布だしをさっと取り、白味噌をとき入れ、つやのある甘いほんのり黄色い白味噌を入れる。とろりとするほど濃くとくのがコツ、そのためには必ず味噌こしを使う。汁ができたら、おかしら、おだい、小芋を入れて、しばらく味をなじませる。お餅は別の鍋で柔らかくし食べる直前に入れる。男は赤塗り、女は外が黒、中は赤塗りの定紋つきのお椀。おかしらを入れるのは元旦の朝だけである。


十二月のなかば、大掃除がすみ、店内中に小判をつるしたもち花を飾り、それが茜壁(あかねかべ)に映えて、華やかで縁起がよく、そんな風情が毎年楽しみです。

三十一日までの営業を終えて片づけると夜の十二時頃、それから下ごしらえをしてあるおにしめを元旦の朝までかかって炊きます。

さて、特別変わったものは何もなく、家族が煮物が好きという事もあって、いくつもの大鉢に盛合せで蓮根、高野、小芋、ごぼうとかも肉、竹の子、こんにゃく、色合いに金時人参、きぬさや、うど等々、炊き合わせます。

そしてお雑煮の用意、元旦のお雑煮は白みそ雑煮(大根、小芋、焼豆腐、もち)です。お祝いが終わると、母や妹、主人で必ずお鏡を持って御先祖様のお墓や、天満の天神様、融通尊にお供えに参ります。店に飾る大きいお鏡とは別に、家中の神様、仏様にそれぞれ供えますので十五くらいになります。

二日目は水菜のすまし雑煮、この時は焼きもちを入れます。三日目も同じく水菜のすまし雑煮、三日間家族が揃ってお祝いをしないと出かける事も出来ません。四日目も福おこしと言って赤みそがゆを食べます。これは赤みそのおかゆにおもちが入ったものです。そして七日の七草がゆも十五日のあずきがゆもすべて丸もちが入っています。

そんなわけで、小もちは三、四キロ買っても足りない時は買い足します。又、神様、仏様のお下がりはおぜんざいにしたりしても毎年二月頃まであります。


我が家の正月の雑煮は、白味噌仕立ての餡入り餅の雑煮である。その他に入っているのは、輪切りにした大根だけであって、それをお椀に装って上に青海苔と鰹節を振り掛ける。

戦前は、年末に正月の雑煮に使う味噌を摺っておくのが私の役目であった。擂り鉢に味噌の豆粒が残らないように、家族九人分の味噌を丹念に摺っておくのは、子供の私にとっては一仕事であった。擂り粉木
(すりこぎ)が年を経てだんだんに小さくなっていくのは、この味噌と一緒に擂り粉木も食べていっているのか、と妙な気分になった記憶もある。鰹節も正月の分を丹念にカンナで削り、雑煮に入れる大根も大晦日の夜に輪切りにしておく。元旦一日だけは一切刃物は使わないことになっていた。

私の家では、家族の好みによって砂糖餡の餅と、塩入餡の餅を入れる。ただそれを装うときに、砂糖餡入りの餅は、塩入餡の餅に比べて餡の黒みが強いので区別をするが、味噌汁の中で煮立った餅を肉眼で識別するのは、そう簡単ではない。よく間違って砂糖餡の積もりの餅が塩餡餅であったりすると、塩っぱい顔になったりしたものである。

又、数日経って少し固くなった餅は炙って焦げ目をつけ、それに大根おろしと鰹節を振りかけて上に浅草海苔をおいて、一寸食塩または醤油をかけて、熱いお茶を注いで食べるのは、今でも私の大好物である。


正月元旦――餅は丸餅で、鉄鍋でゆでます。具は福立菜、人参、百合根、牛蒡、大根、汁は昆布と鰹でとる醤油味のお澄ましです。

子供の頃は、家長の祖父を囲んで、歳の数だけお餅を食べる決まりで、お正月が近付くと、何日も前から本当に指折り数えて、待ち遠しかったものです。家族十人の大所帯でしたが、このお雑煮が終わると、一人ずつ祖父の前に出て、その年の目標のようなものを述べ、お年玉を戴くという段取りで、昭和二十年、戦争で本宅が焼けてしまう迄の懐かしい想い出です。

そうそう、大事なことを忘れていました。このお雑煮のミソは、塩鰤の切り身が一番上に一寸甘辛い味付をしてドーンと乗って居ることでした。

これが岡山風と云うのでしょうか、味付けを含めて、家内が今も受け継いで呉れています。

正月二日――同じく丸餅の大きいものをゆで、白味噌仕立てのとても単純で、すっきりしたものです。家内の母方が、九州の熊本の山奥の神主の出ですから、これに八ツ頭の芋が少々入って居る場合もあり、京風と云っておりますが、長い伝統のようなものを感じさせて呉れます。

正月三日――鴨雑煮です。鴨は丸
(がん)といいますか、つくね状の団子を用います。餅はこの時は焼いた方がいいかも知れません。芹と人参と牛蒡を具にして一寸乙なもので、今は別に暮らしている子供や孫達はこれを楽しみに集まって来ます。

以上が私共の家の三ケ日のお雑煮で、年末に作ったお節料理と共に、何とはなしに目出度い気分を運んで呉れています。


二つのふるさとを持つ私ですが、正月らしい正月というと、小さな頃より育った関西らしいお正月が、思い出の中にたくさん残っています。暮れの三十日は終い荒神にお札を納めに行き、数の子や棒だらを水につけたり皮をむいたり、大晦日は、父の号令のもとで大掃除とおせち料理の手伝いにあけくれ、夕方になると今年最後の買い物に出て、レコード大賞を見ながら夕食、そして紅白歌合戦が終わる頃に初詣に全員で出かけ、いただいてきた「火(おけら)」で初日の出の上がる頃新年の目標を発表して雑煮を祝いました。それからやっと布団に入ってと、とにかくきちんとした家でした。元旦の雑煮は、父の出身地広島に因み、牡蛎と丸もちの入った清まし汁、二日目は母の出身地大阪に合わせて白味噌に丸もち、三日目は水菜……と、毎日変わったお雑煮と、一の重、二の重、三の重までしっかり手づくりの母のおせちを、正月しか使わないおわんや器を出していただきました。母は本当によく頑張ったものだとこの歳になってよくわかります。宿を始めてから、年末か正月かわからないぐらい、忙しい中で過ごすようになり、何より申し訳ないのは、うちの子供たちに私が両親から受け継いだ生活習慣や文化を繋いでいないことだと反省しております。せめて娘には今からでも伝えたいと思います。

今住んでいる湯原については、昔からこの町を知る方に伺いますと、湯原温泉は深い山の中にあり、決して裕福な村ではなかったものですから、正月といっても三つ皿という三つの大皿にごまめ(田作り)、数の子、紅白なますを盛り、それに貴重だった塩鰤のあらをつきたてのもちで雑煮を祝ったそうです。年末のもちつきではかなりたくさん(三斗ぐらい)ついて、正月十五日までは明けても暮れても「もち」を食べて、普段は忙しい農家の奥さんたちもゆっくりさせてもらったそうです。「食」というものは生活環境に適応するものだということが、この里に来てよくわかりました。食を楽しむことは、今では当たり前の事ですが、それはある程度の余裕があるからで、私たちは幸せな時代に生まれ育ったことを感謝したいと思います。


他所の方から長崎の食について尋ねられた時、私は中国の食在広州を真似て、「食在崎陽」とちょっと胸を張って答えます。

まず魚は有明海、千々石湾、大村湾、五島列島の磯もの、東シナ海の遠洋ものと、新鮮にして魚種の多さは目を見張ります。肉は五島牛に平戸牛。果物は枇杷に、みかんを始めとする豊富な柑橘類。長崎の食は、この海の幸山の幸の豊かさに加え、鎖国時代からの唐、南蛮、紅毛の食文化が、織り混ぜになっているのですから、そのバラエティ豊かなこと、「本邦に類いなし」の感があります。そしてその豊かさは、長崎の郷土料理である卓袱料理はもちろんのこと、豪華な長崎雑煮にも見ることができます。

長崎雑煮の一番の特色は、何と言っても具の豪華さです。私どもの宿でお正月をお迎えになられるお客様は、一様に驚かれます。鰤の塩身、若鶏、煎海鼠(干しナマコ)、かまぼこ、唐人菜、輪切り大根、人参、椎茸、銀杏、慈姑
(くわい)など、焼いた丸餅とともに七品から十五品を、必ず奇数で入れます。出汁はアゴの干物(飛魚)か、昆布と鰹節。薄口醤油で味を打ち、雑煮椀に具を入れてから、濁らないように出汁を張ります。

このような豪華な雑煮で新年を祝いますが、旧い商家では「すえ鰯」と称して、塩鰯二匹を裏白の上に腹合わせにすえ、贅沢の戒めにしたと先代から聞いております。

※崎陽=長崎の別称



沖縄のお正月は比較的暖かい。極端な話、日中なら半そでで過ごせる年もあるほどだ。そこが観光客にはひそかに人気らしい。気候の違いから、異国情緒を満喫できるからなのかもしれない。

そして沖縄のお正月料理も、江戸文化から誕生した本土の「おせち」とは違い、一風変わっている。ひとしきり代表的なメニューを挙げてみると、イナムドゥチ(猪もどき。白味噌仕立てのお汁)、中身汁(豚の内臓が入ったおすまし)、ターウム(田芋)田楽、ラフテー(豚の角煮)、クーブイリチー(昆布炒め煮)、スンシーイリチー(メンマ炒め煮)、クファジューシー(炊き込みご飯)、花イカ、揚げ豆腐、紅白かまぼこ、といった感じになる。

ちなみにターウム田楽は、本土のおせち料理で言えば、栗きんとんのようなもの。紅白かまぼこはこれまた一風変わっており、一言で言えば「巨大」だ。普通の紅白かまぼこの一・四倍はあるかと思われる。

また、沖縄には「お雑煮」がなく、年越しはソーキ汁(豚骨付きあばら肉の汁もの)が一般的だった(今ではそれがソーキそばにとって代わり、お味噌汁にお餅を入れてお雑煮気分を味わう家庭も多くなってきたが)。

さらに沖縄のお正月で欠かせないのが「豚肉」である。一昔前は、旧暦の正月前日に民家で正月用に太らせた豚を一頭つぶし、脂肪から食用のラードをとって残りはまるごと料理に使っていた。うちなーんちゅ(沖縄人)は「鳴き声以外はすべて食う」と言われるほど、豚を余すことなく食材として使いこなすのである。

この食習慣、「豚肉を食することで、悪霊から身を守ることができる」という、古くからの言い伝えによるものだそう。今でこそ豚を各家庭でつぶして調理するのはほとんど見られなくなってきているが、メニューは今も昔も一緒。年末、スーパーや市場では豚ロースや三枚肉などが飛ぶように売れていく。

何はともあれ、豚肉がなければ「沖縄のお正月」は始まらないのだ。


【あとがき】 お忙しいお仕事の中、原稿を有り難うございました。食の同質化が言われるいま、土地柄というものを実感できる特集になりました。
ある調査では、昨年、おせち料理を食べた家庭は96%で、日本人は、正月におせちが無ければ一年が始まらないようです。しかし、うち60%がスーパーやデパートで買った市販品だったそうです。もっともっと、その土地の手作りの正月料理を大切にしたいものです。